+ 逢い引き +   「陽の前月の後」 つしまのらねこさまからの頂き物 

 

 

 

 

 

 

仕事が終わると一分一秒を惜しんで部屋に戻る。

着ていく服に悩む時間がもったいなくて、寝る前に翌日の服を用意するようになった。

今日の分の服に着替えると化粧を直してバッグを掴む。お土産は何にしようか。

あっさりしたものなら好きと言っていたけど、柑橘のジュレが美味しそうだったよね。まだ売り切れていませんように。

飛び乗った電車は帰宅のサラリーマンでいっぱいだったから、バッグを胸元に抱え込んだ。

電車を降りてお店に寄って、あと二十分もあれば教官に会える。

パンプスで電車の揺れに耐えながらその時のことに想いを馳せる。

 

 

通い慣れた病院の廊下をなるべく静かに歩いてその病室の前で立ち止まる。

堂上篤。

初めてここに来たときに穴が開くほど見たネームプレート。

あたしはその三文字のプレートを愛しむように見つめた。

・・変じゃないよね?

自分の服装を改めてチェックしてから、控え目にノックをした。

どうぞ、と返事があってからそろそろと扉を開ける。

ちょっと覗きこむように見るとあたしに気づいた教官が柔らかく笑った。

「おつかれ。早かったな」

手元に広げていた本に栞を挟むと枕元に置いて早く来いと招かれた。

 

教官はカッコいい。

いつも仕事の時は仏頂面だったけど、ここに通いはじめてからそれが意識して作った表情だったらしいことに気がついた。

あたしが特別になってから見せてくれるその優しくて甘い表情にあたしはまだ慣れていない。

胸の奥がふわりと暖かくなる。

あたしはこの人が好きだ。

気を抜くとボンヤリとしてしまうのであたしは忘れないうちに病室のドアをきちんと閉めた。

 

 

「教官、レモンとグレープフルーツどっちがいいですか?」

小さな箱に入っているジュレを掲げて見せる。

「後で貰うから冷蔵庫に入れてくれ。それよりこっちに来い」

とんとんと教官が叩いて見せたのはベッドの端で、あたしは赤面する。

だってそこはキスの定位置だ。

お土産を冷蔵庫に仕舞ってちょっと考えてカーテンを引く。

「察しがよくなったな」

教官はニヤリと笑う。

それには答えずあたしは口を尖らせた。

教官のベッドに腰掛けた姿勢でキスをしていて入ってきた中年の看護師さんにあらあら、と苦笑されたのはつい何日か前の出来事であたしの中では死ぬほど恥ずかしい思い出だ。

だけど。

課業後の僅かな時間にこうやって教官の所にお見舞いに来るのはあたしにとっても貴重な時間なのは間違いない。

あたしは教官の指示した通りの場所に腰掛ける。

教官の手があたしの腰の辺りに回る。

「今日は何があった?」

問われるままに今日の出来事を話す。いつも日報に書いているような内容なのに、睦言のようにそれを聞いた教官は相槌を打ちながらもあたしの掌を弄んでウエストの辺りを撫でる。

最後まで話したあたしをぎゅっと抱き締めるのももう日課に近い。

「そうか、今日もよく頑張ったんだな」

引き寄せられて唇を重ねる。

あたしが今一番嬉しいご褒美。

うっとりと唇を堪能する。

怪我人だから、体重がかからないようにしないと、と思っていられるのははじめのうちだけで、そんな思考はすぐに溶かされてしまう。

あたしが体を預けると教官はあたしを隅々まで蹂躙しはじめる。経験値の低いあたしはそれについていくのが精一杯だ。

くちゅりと濡れた音がして途端に恥ずかしくなって身を離した。

口の中にはリアルに教官の舌がはい回っていた感覚がまだ残っている。口許を両手で覆って唾液を飲み込む。多分あたしの顔は赤い。

その様子を楽しげに教官は見ている。

その表情が優しくてあたしは抗議しかけたのをやめた。

もうお土産なんてどうでもいいや。

抱き寄せられた腕のなかに落ち着くと教官の心臓の鼓動が聞こえる。

あたしは目を閉じてその音を聴いた。

 

 

人間の顔の色があんなに白くなるものだとは思わなかった。

血の気のない教官の様子をちょっと思い出して耳を胸に押し付ける。

大丈夫。

ちゃんと生きてる。

リハビリすれば戦線復帰もできる怪我だったことは幸いなんだから。

 

 

「・・生きてる」

ふう、と漏れた安堵のため息に教官があたしの顔を覗きこんだ。

「・・・・心配するな。お前にこの程度で追い越される訳にはいかないからな」

苦笑混じりの言い方にあたしは唇を尖らせた。

「あたしだって、ちゃんと追い付いて追い抜きたいんです。リタイアとか絶対しないで下さいね」

睨みつけるような上目遣いに鼻先に小さくキスされる。

「安心しろ、もうしない」

言ったことはちゃんと守る人なのはわかってるからその言葉にあたしは目を閉じた。

規則正しく打たれる心音が心地よい。

 

こんこん、と控え目にノックの音がした。

「堂上さん?清拭の時間ですけど」

先日キスしてる所を見られた看護師さんだ、というのは声でわかる。

「ええと、来客中なんですが」

教官が言うのを聞きながらセイシキって何だろう、とあたしは病室の入り口に向かう。

「あの、お邪魔なら外で待ってますけど」

「来客って、ああ、彼女さんなのね?丁度いいわ、お願いできるかしら?」

四十辺りのその看護師さんは笑った。

「何をすればいいんですか?」

首を傾げるとトレイに乗った蒸しタオルを渡された。

「シャワーもまだ無理だから、タオルで体を拭くの。出来るところだけでいいから」

その程度ならとあたしがはい、と返事するといやちょっとそれは、と教官が反論する。

「できなかった所は自分でするか後で来ますからその時にね。ごゆっくりどうぞー」

カーテン越しのその声に看護師さんは朗らかに言い放ってドアを閉めた。

カーテンが引いてあるぶん大回りしてベッドサイドまで戻ると教官は微妙な顔をしていた。

「あの、任されちゃったので、笠原頑張りますから!」

両手が塞がっていたので敬礼はしなかったけどそれに近い口調で言うと教官は諦めたように溜め息をついた。

「えと、じゃあまずは脱いでください」

言った後で自分の言葉が激烈に恥ずかしくなった。見る間に赤面するのが分かる。

「恥ずかしがるくらいなら請け負う前にちょっとは考えろ」

苦笑していた教官は何故かニヤニヤ顔だ。それからさっさとパジャマを脱ぐ。

男の上半身なんて訓練の後で見慣れてる。なのに、それが好きな人の背中だと思うと不思議と恥ずかしい。

蒸しタオルの山から一つとって目をつぶってえいと突き出すとあち!と教官が悲鳴を上げた。

「・・・・なるべくお手柔らかに頼みたいんだがな、看護師さん」

「すすすすみません!!気を付けます!」

タオルを一度開いて温度を下げてから、今度はゆっくり首筋に当てる。

力加減がわからなくて撫でるようにしているともっと力入れてもいいぞ、と教官に諭された。

「それだとくすぐったくてかなわん」

あ、そうか。

あたしはごしごしよりもちょっと弱い程度の力加減で背中を拭く。教官の背中にも腕にも怪我のあとが沢山あった。

多分、今までの無茶で出来た傷痕。

どんな状況でこんなに傷だらけになったんだろう。明らかに入院が必要な手術の跡もいくつもあって、その度にリハビリをして復帰したんだろう。

信念の為に負った傷。そして、今もその戦場に戻る覚悟を持った人なんだ。

そっと傷痕に触れる。もう治ってしまったそこは僅かにひきつれたような縫いあとがあるだけで痛みはない筈なのに教官はびくりと肩を震わせた。

ちょっと目元が熱くなる。

背中側にいたのであたしの表情に教官が気づいた様子はなかった。何事もなかったふりで腕とお腹にも取りかかる。

ハッキリ割れていた筈の腹筋はちょっと筋肉が落ちている気がする。贅肉がついたとかじゃなくて、多分動けないから。

復帰までのリハビリ、大変そうだな。

ちょっと悲しく思いながらも上半身を拭きあげて、そこであたしははたと動きを止める。

教官が着ているのは夏用のパジャマだ。生地が薄い分ズボンは踝まである。

えーと、これは、脱がせるべき?

でも本屋のバックヤードでは自力で着替える余力もなかったのに全力で拒否された。

「あの・・・・足も拭いた方がいい、ですよね・・?」

その言葉に教官は暫く考える顔になった。

「膝から下だけでいい。裾から捲ってくれ」

どんな葛藤があったのかそれだけ言われてあたしははい、と答えると足元に向かう。

そうだよね、流石にここまでは手が届かないだろうし。

それに。

ここでズボンを脱がれても多分あたしは直視できなかった。

と、思う。多分。

背中だけでもあれだけ恥ずかしかったのに!

看護師さんとかはこういうの平気なんだろうけど。

 

 

ちょっと嬉しく思いながら蒸しタオルで丁寧に膝から下を拭っていく。

足の指まで丁寧に。

これってなんだか彼女がお世話してるって感じだよね。

「これでいいですか?」

「ああ、ありがとな」

使ったタオルを纏めて置いて、あたしは冷蔵庫の中のお土産を思い出した。

「お土産食べませんか?」

「食べる。紅茶入れてきてくれ」

あたしははあい、と答えると物入れから出したカップとティーバッグを持って給湯室へ向かった。

暫くして病室に戻ると、教官は何やらゴソゴソしていた。ひとまず二人分のカップをボードの上に置く。

「何してるんですか?」

「自分で手が届くところを拭いてただけだ。まだ任せられないからな」

まだ、と言われて顔が赤くなる。

まだってことは、いつかあたしが教官の全身を拭くことがあるんだろうか!?

え、え、それってどういう状況で?

────怪我、とか?

不意に浮かんだ考えに表情が凍る。

「郁?」

教官が怪訝な顔で見ている。

「来い」

ほてほて近寄ったあたしの手を掴むと引き寄せる。

「何考えた?」

教官の胸に頭を押し付けるように暫く抱えられてあたしは切れ切れにその言葉を吐いた。

「教官が・・・・また、怪我したら、どうしようって・・」

「あー・・・」

あたしの表情に合点がいったらしい。

「安心しろって言っただろ。保証はできんが無茶はしない。約束する」

それでいいか、と言われてあたしは頷いた。

落ち着け。

もしもの心配をしすぎればあたしたちは身動きがとれなくなる。

教官だって、あたしの入隊以降は入院が必要な怪我なんてしてなかったんだし、これからもきっと大丈夫。

あたしが子供のようにすがっている間ずっと髪を撫でてくれていた教官はあたしの顔が上がるとぽんぽんと軽く頭を叩いた。

 

「ほら、今日は何買ってきたんだ?」

「・・レモンとグレープフルーツ、どっちが好きですか?」

お土産の箱を開けて見せる。

「どっちもうまそうだな。お前先に選んでいいぞ」

ほら、と差し出されてあたしはレモンを選んだ。

・・甘やかされてる。

嬉しいけど。

でもちょっとグレープフルーツも気になるな、と思っていたら食ってみるかと聞かれた。

だだ漏れか。あたし。

「じゃあちょっとだけ」

スプーンを伸ばしかけたら教官のスプーンが口元に伸びてきた。

えっと。

これは、食べろってこと、だよね?

教官の方を伺えば楽しげな顔で見ている。

あたしはおずおずとスプーンをくわえる。

グレープフルーツの酸味とほろ苦さも少し。二層になった底の方はヨーグルトらしい。夏らしいさっぱりしたデザートに笑みが零れる。

「美味しいー!じゃあじゃあ教官も一口どうぞっ」

あたしが差し出したスプーンを教官は一瞬迷ってからパクリとくわえた。それからあたしの手をつかんでゆっくりとスプーンを口から出す。

暫くモグモグしてから、甘いな、と漏らした。

あたしは食べさせあってるその状況に気付いて赤面する。

うわなんかこれ嬉しいけど恥ずかしい!!

自分でやったことなのに目が上げられない。

顔を伏せたまま自分の分をパクパク食べながら上目遣いでみやると教官もちょっと照れているようで可笑しかった。

 

 

面会時間は8時まで。

辺りが暗くなってきた頃合いだから、時計を見なくてもそれはわかった。

洗ったカップをタオルの上に伏せて置く。

もう帰らなきゃ。明日も仕事があるから。

病室で過ごす時間はあっという間で、来る度に帰る時間が寂しい。

「また、来ますね」

一生懸命笑顔を作ってそう言うと教官はぽんぽんとベッドの定位置を叩く。

あたしがそこにストンと座るとぎゅっと抱き寄せられた。

「そこで泣きそうな顔するな。寂しいのはこっちだって一緒だ」

耳許で囁かれてあたしが教官を見上げると、教官は宝物のようにあたしを呼ぶ。

「・・郁」

顔が近づいてくる。

あたしは目を閉じた。

何度か啄むようなキスが降ってきて、それから腕の力が緩む。

もうちょっと甘えたいけど、今日はここまで。

「無理はするな。でも、また来てくれ。待ってる」

ぽんぽんとついでのように撫でられてあたしは今度はちゃんと微笑めた。

「また来ますね。・・おやすみなさい」

 

 

 

 

fin

(from 20140531)

  

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