「エンドマークのその後に」 ましろ様からの頂き物

 

 

 

 

それは金曜日のこと。

 堂上は今日公休日だった。いつもよりゆっくり起き、洗濯や掃除などの家事を済ませると、ぶらりと武蔵野第一図書館へと足を運ぶ。

 ここのところ多忙で趣味の読書にかける時間が減っていたが、少しずつ秋の気配を感じるこの季節、いつもとは違った作品でも読もうかと、珍しく文学の棚の前で思案していた。

 

「へえ、夏目漱石ですか?」

 

 書棚に手を伸ばして一冊引き抜いたところで、聞き慣れた声が背から届く。

 配架作業をしていた柴崎が珍しそうな目で堂上を眺めている。

 

「堂上教官ってそういうのもお読みになるんですね」

 

 うふふっと笑みを零しながらひょいっと背表紙を覗き込まれる。

 

「たまにはな」

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい……ですか」

「さすがに詳しいな。草枕の一説か」

 

 堂上は書棚に指を滑らすと、漱石の作品群から一冊引き抜く。

 

「え、『草枕』を借りるんですか?」

「よく考えたら、その出だししか知らん」

 

 お前は当然読んでるんだろ?と言わんばかりの堂上の視線に、柴崎は申し訳なさそうに肩を竦める。

 

「坊ちゃんやこころは読了してますけど…。あたしも草枕は冒頭しか知らなくて」

「漱石は作品内の文節が名言として残っているし、そればかり有名になってるのかも知れないな」

「ああ、『月が綺麗ですね』…とか?」

「あれは名言とは言わんだろ」

 

 堂上は軽く笑うと、じゃあ、これ借りていくぞ、と軽く手を上げて貸出コーナーへと向かう。

 柴崎は堂上の背に向かって一礼すると、また配架作業へと戻っていった。

 

 

 

 

月が綺麗な夜だから

 

 

 

 

 

 図書隊員の公休はシフト制となっている。

 図書館勤務であれば休館日が固定の休日になるが、防衛部は完全なシフト制だ。

 その中でも図書特殊部隊は全ての業務に就くという特性上、公休の取り方もやや特殊になっている。

 堂上班はみな独身で寮住まいということもあり、妻帯者と違って土日を休みたいという希望はない。ただ、最近は小牧が恋人と予定を合わせたいという理由で、日曜を公休の希望にしており、土曜も続けて休みを希望することが増えた。

 班ごとにまとまって公休となる日もあるが、それ以外は班長と副班長が同時に休みを取ることは滅多にない。必然的にここ最近の堂上の公休は土日を外すものになっていた。

 そして郁はと言えば、もともと設定している公休の希望が土曜で、手塚は手塚で休みの日は実家に顔を出したいという理由で希望は日曜だ。

 日曜公休が小牧・手塚。土曜が笠原。そして土曜は頻繁に小牧が公休を取る。

 ・・・班長たる堂上は、班員たちの希望を叶えるのが第一で、小牧が出勤している平日しか休みが取れないのが現状だ。

 そんな訳で郁と公休日を合わせる、というのがなかなかに難しく、二人の公休日が重なるのは月に2回程ある堂上班全員が休みになる時だけだった。

 

「今回も週末を連休にして悪いな」

 

 今月のカレンダーを睨みつつシフトを組んでいると、後ろから小牧の申し訳なさそうな声がかかる。

 

「堂上が休みたい時があれば、言ってくれて構わないから」

 

 それは暗に『笠原さんと公休日を合わせていいよ』という小牧なりの気遣いだろうが、班長という立場上、公私の区別は付けねばならない。それに小牧と違ってこっちは会おうと思えばいつでも会える距離にいる恋人だ。

 

「いや、別に構わん」

 

 班員がきちんと希望する公休を取れるように配慮するのも俺の仕事だ、と堂上は何気ない響きで返した。

 

「四人しかいない班だからなぁ…」

「まあな。それに他の班との兼ね合いもあるし」

 

 業務部の女性と付き合っている隊員も多い。そのせいで図書館の休館日に希望休が集中するので、協力できる者は出来るだけ休館日は休むなという不文律もあった。

 

「堂上は今週……火曜と金曜が公休?」

「ああ。その時はいつものようにお前に頼む」

「笠原さんは……ええと、今週は土曜と日曜か…」

 

 堂上が組んでいるスケジュールに目を落とした小牧が指先で班員の公休日を辿る。

 ごめん、俺と重なってるな、とまたしても小牧が肩を竦めた。

 

「だから気にするな」

 

 堂上は軽く笑うと、スケジュールを閉じて小牧の肩をポンッと弾いた。

 10も年下の、何かの魔法でもかかってるんじゃないかと勘繰りたくなるくらい、日々可愛らしさを増している可愛い恋人を、放っておくことなど出来ないんだろう。

 

「ああそう言えば、金曜の夜に飲み会やるって隊長が」

「……またかよ」

 

 俺、その日は休みなんだけどな、と小さな不満が零れたが、飲みの席に自分がいなければ郁の面倒は誰が見るのだと不安になる。

 

「ま、しょうがないか」

 

 郁と二人っきりになれる訳ではないが、帰りにあいつを送りがてら一緒に歩くくらいは出来るな、と堂上は心中でほくそ笑んだ。

 

 

 **********

 

 

 特殊部隊の飲み会は、いつも豪快だ。

 男ばかりでしかも酒豪揃い。

 大声でがははと笑う隊長の横で、静かに杯を傾ける副隊長、そして場を盛り上げるのがうまい進藤がその場の爆笑を誘って宴はますます盛り上がりを見せる。

 

「あれ、笠原は?」

 

 公休日だった堂上は、自室でのんびり読書を楽しんでから酒席へ参加している。

 課業後にスタートした宴席なのに、当然いるはずの郁の姿が見えない。

 

「笠原さん、ちょっと書類をミスってね…。やり直してから来るよ」

 

 またか、と些か渋い表情を浮かべた堂上は、小牧の隣にどかっと座りこむと、とりあえず生ビールを頼んだ。

 

 

 **********

 

 

 その頃、女子寮では。

 

 バタン、と大きな音を立てて302号室の扉が開かれた。

 柴崎が振り向くと、慌てた様子の笠原が飛び込んでくる。

 

「うわーっ!遅くなっちゃった!今から飲み会なのよ、行ってくるね!」

「ちょ、ちょっと待った!あんた、その格好で行くの?」

「え、だっていつもの飲み会だし、別にこのままでいいんじゃ…?」

 

 郁の格好は、薄手のニットにジーンズという、非常にラフな姿。しかも通常業務から帰ってそのままということは、下着だって日常身に着けているスポーツブラに違いない。

 柴崎はわざとらしく溜息を落とすと、説教口調になる。

 

「あんたねえ、特殊部隊の飲み会とはいえ、一応恋人がいる場でしょ?プライベートで一緒にいられる時間は少ないんだから、もうちょっとおしゃれしていきなさいよ」

「プライベート…って。でもみんなも一緒だし…」

「何言ってんのよ!公認の間柄なんだから、少しは楽しんで来なくちゃ!」

 

 柴崎は勝手知ったる笠原のクローゼットを不作法に開くと、かかっている服をふむふむと吟味する。

 

「帰る頃には冷えるだろうし…。そうねえ、これなんかどう?」

 

 柴崎のチョイスは、てろんとした可愛らしいブラウスにカジュアルなジャケット。そしてこともあろうにボトムは短めのタイトスカートだった。

 

「え、スカートはやだよ!飲み会なんだよ?足が崩しにくいじゃん!」

「だ か ら よ !…あんた酒の席だと気が緩んで寝落ちするでしょ?!あえて緊張感のある服装で行きなさい!」

 

 そんなあ、と少しばかり情けない声を上げた郁だったが「教官に見せたら喜ぶわよ」の一言で、そうかな、としおらしくはにかんだ。

 じゃあ着替えるね、と服を手にした郁に「下着もちゃんとしたのに替えなさいよ」の声が追いかけてくる。

「し、下着も?なんで?」

「なんで…って。あんた、スポブラでそんなブラウス着るつもり?ただでさえ平らな胸をまな板にする必要ないでしょうが」

 せっかくおしゃれするんだから少しくらい胸元膨らませていきなさいよ、と至極もっともなアドバイスが続く。

「はあい」

 素直に返事をすると、デート用の下着を身に着け、特殊部隊の飲み会に行くにしては些か女の子モードの高すぎる出で立ちで、自室の扉を開く。

「じゃあ行ってきまーす!門限までには帰るから」

 ご丁寧に髪に飾りピンまで付けてにこやかに背を向けた郁を、柴崎が「ねえ」と呼び止めた。

「ん?なあに」

「ちょっと窓の外見てごらん」

 柴崎が閉めてあったカーテンをレースごと開く。四角い窓枠の中には、漆黒の闇。その闇を白々と照らす月明かりが降り注いでいた。

「今夜はキレイな満月よ。教官と一緒に眺めるといいわ」

「……へえ、ロマンチックかも」

 素敵素敵、教官と一緒に見られたらいいな、と恋する女の顔をして、郁はいそいそと出かけていった。

 

「……ふふん、うまく行けば、今夜は帰ってこないわよね」

 

 柴崎はひとりごちると、窓の外の満月に向かって「うまくやんなさいよ」と願をかけていた。

 

 

 **********

 

 

 郁が居酒屋に到着した時には、もう宴もたけなわ状態で「おお笠原来たか!」とご機嫌な隊長が手招きする。

 隣の緒形と進藤が、笠原の格好を見てちょっと驚いたような表情を浮かべた。二人して少し顔を見合わせると、何やらアイコンタクトを交わしたようで、進藤がすっと立ち上がると少し離れた場所で小牧と話し込んでいた堂上の肩をトントンと叩く。

 

「堂上、お前も隊長のとこに来い」

「え、俺もですか」

「笠原が着いた途端に掴まった」

 

 お前がいた方が安心だからとさり気なく続けると、また自分の席へと戻っていった。

 公認の仲になったとはいえ、酒席での堂上と郁の関係にさほど変化はない。郁がつぶれてしまわないように目を配るのは相変わらずで、多少変わったことと言えば、郁が寝落ちした時は誰に何も言われなくとも堂上が当たり前のように郁を背負うようになったくらいだ。

 

「隊長、あんまり飲ませすぎないでもらえますか」

 

 秘蔵っ子の郁がよほど可愛いのか、まるで娘か姪っ子のように構いたがる玄田は、ほら食えほら飲めと、郁が頼むよりも早くずらりと揃えてしまう。

 酔っ払って奇行に走る姿も玄田には堪らなく可愛いらしく映るらしい。堂上にとってはひどく迷惑な上官だったが、玄田は玄田なりに郁に愛情を注いでいるのだから苦言もスルーされがちだ。

 

「大丈夫か?」

 

 堂上は郁の前に座って、ずらりと並べられたカクテル類をさり気なく吟味し「この辺なら大丈夫そうだ」と、郁の前に置く。

「こっちのは止めとけ。口あたりはいいがアルコール度数が高い」

「…すみません」

 照れたように笑うと「遅くなってすみません」とぺこりと頭を下げた。

「またミスったんだって?」

「え、なんでそれ…。あーッ、小牧教官がばらしたんですね!」

「ばらした…って、そこ文句言うところじゃないぞ」

「まあまあこんな席で小言を言うな!俺も書類仕事はミスが多いぞ!」

 玄田が話に割って入る。途端に堂上の眉間の皺が深くなった。

「隊長はもう少し部下の見本となるように、正確かつ期日を守ってですねぇ……」

「あーっうるさいうるさい!お前と飲むと酒がまずくなる!」

 耳を塞ぐ仕草をして大声を上げると、玄田はトイレに行ってくると席を立った。

 

 なんとなく奥の席で郁と二人だけの雰囲気になる。

 

「…お前、わざわざ着替えてきたのか?」

 郁の格好が普段出勤してくる普段着とは違うのに気付いて尋ねると、こくりと頷く。

「柴崎がおしゃれしていけって」

「こんな飲み会に洒落た格好する必要ないのに」

「……その…。堂上教官がいるんだから…って」

 

 周りの賑やかな話し声で、二人の会話が他に聞こえているとは思えなかったが、少し照れくさくて郁は声を潜めた。

 堂上の方もまんざらでもなく「そうか」と口元を綻ばせる。

 

「教官、今日は公休でしたよね。何してたんですか?」

「何って言うほどのことは…。洗濯して掃除して、それから図書館行って本借りてきた」

 

 そこでふと思い出したように「図書館で柴崎に会ったぞ」と続けた。

 

「え、柴崎に?」

「ああ、何借りようかと思って少し話した」

 

 久しぶりに文学作品にしてみたという堂上に「文学かあ」と頷いた郁は「あたしも明日図書館行ってこようかな」と呟く。

 

「お前は明日が公休だったな」

「ええ。だから今夜は少しくらい飲み過ぎたって大丈夫です」

 

 郁の手がグラスに伸びる。

 薄いピンク色をしたカクテルを口元に運ぶと、こくりと飲み込んだ。

 その口元にはほんのりと色が付けられ、服装を変えてきただけでなく薄化粧も施してきたんだな、と気付く。

 

「少しくらいなら飲み過ぎてもいいが…。眠くなったら言えよ、帰りは負ぶってやる」

「あ、今日はそれは無理なんで!遠慮しまーす!」

 珍しく郁から拒否の言葉が被せられ堂上が驚いたのに気付くと、郁は慌てて言葉を続けた。

「えっと、おんぶされたくないという意味じゃなくて……。実は今日はおんぶされるにはちょっとマズイ格好なんですよ」

 照れくさそうに頭を掻いた郁に、訝しげな表情を返すと、郁は少し身を乗り出して「今日はスカートなの」と小声で打ち明けた。

「え、」

 滅多に拝めない郁のスカート姿を、何もこんな飲み会の席で披露しなくていいだろうが、と危うく文句の言葉が喉から溢れかけたが、そこはぐっと飲み込んだ。

「柴崎が、緊張感のある格好していけって。せっかく堂上教官と一緒なんだから、帰りに月でも眺めながら帰っておいでって」

 ふふ、ちょっとデート気分になれますよね、と微笑んだ郁に、堂上も釣られて笑みを返した。

 

 

 **********

 

 

 スカート姿が抑止剤になったのか、堂上が気を付けていなくとも郁は飲み過ぎないようセーブしていたし、うつらうつらと舟を漕ぐこともないようだった。

 女性らしい格好は自分と二人だけの時にしてくれればいいのにな、と思いもしたが、周りから「笠原はお前と付き合い出してますます女っぷりが上がったな」と言われるのも悪い気はしない。

 皆からの賛辞の声を照れくさそうに承っていると「ちょっといいかな」とグラスを片手にした小牧が隣に腰を下ろした。

 

「急で悪いんだけど…。休みの変更お願い出来ないかな?」

「変更?いつだ」

「明日」

「明日?…ああ、明日の休みを変更するのか?いつに?」

「うーん、特に希望はないんだ。来週のどこかの平日でいいよ」

 堂上の公休と取り替えてもらえると有難い、と小牧は頭を下げる。

「別に構わんが…。毬江ちゃんはいいのか?」

「うん。ていうか、毬江ちゃんが週末ダメになったんだよ。月曜提出のレポートが終わらないんだって」

 土日返上でレポート作成するらしい、と小牧は肩を竦めた。

「まあ、別に予定通り休みでもいいんだけど…。ほら、笠原さん、明日お休みだったでしょ?」

「…ああ」

「俺のせいで二人の休みが合いにくいみたいだし、こんな飲み会でも張り切っておしゃれしてきた笠原さん見てると、堂上とデートさせてあげたいなあって」

「…いらん世話だ」

「じゃ、休みの交換しない?」

「……いや」

 なんだよ素直に喜べばいいのに、と悪戯っぽく続けると、じゃあ今夜は外泊にしとく?とニヤニヤと笑っている。

「それはあいつの予定を聞いてみないことには…」

 言葉を濁すと「それもそうだね」とあっさり返された。

「でもせっかく公休日が重なったんだから、お前も今夜は飲み過ぎないように。俺がうまく言っておくから、二人で先に抜け出していいよ」

 小牧なりに休みの都合を優先させてもらっている気遣いらしい。堂上は小牧の言葉に郁の姿を探すと、またしても玄田に掴まっている姿が目に留まる。その前に透明な液体が運ばれてきたのを見とがめ、慌てて席を立った。

 

 

 **********

 

 

「───隊長、こいつに何飲ませるつもりですか」

 

 低く重たい声でじとっと背後から話しかけると、悪戯を見つかったように玄田が明後日の方向を向く。

 

「お前もお前だ!何を飲もうとしてるんだ」

「え~だって、これ滅多に飲めない大吟醸だって隊長が…」

「飲みつけない日本酒なんか飲んだら、絶対につぶれるぞ」

 

 お前、今日の格好忘れるな、と嗜めると、郁は慌てて頷いた。

 笠原と玄田の間に小牧が割って入り、「隊長、俺が代わりに頂きますよ」とずらり並んだ日本酒のグラスをくいっと呷る。

 視線は玄田に向けたまま、小牧が「ほら、行きなよ」と堂上の肩をさり気なく押したので、その意向を有り難く受けることにした。郁に「出るぞ」と小さく耳打ちすると、訳がわかっていない郁はキョトンとしたまま堂上の後について店を出ていた。

 

 

 **********

 

 

「……いいんですか、勝手に出てきちゃって」

「構うもんか。会費はちゃんと置いてきたんだ。それに俺は今日は休みなのに付き合ってるんだぞ?」

 

 時刻はもう夜中。

 門限までにはまだ猶予があるが、この時間ともなるとひんやりとした冷気が肌に刺さる。

 堂上は郁の短いスカートからすらりと伸びた足にちらっと視線を落とした。

 

「…寒くないか?」

「少しお酒飲んだし、酔い覚ましにちょうどいいくらいです」

 

 思いがけず二人っきりになれたことで、郁の表情も嬉しそうに綻んだ。

 賑やかな繁華街を抜けて夜道を二人で歩く。

 飲み会の後は堂上の背中に負ぶわれて帰ることが多く、ふたりで歩みを揃えて夜道を歩くのは久しぶりだ。

 

『今夜はキレイな満月よ。教官と一緒に眺めるといいわ』

 

 数時間前、柴崎に言われた郁の脳裏に言葉がふっと浮かんだ。

 くいっと顎を上げると、まん丸いお月様がちょうど真上に差し掛かろうとしている。

 

「あー、ホントにキレイ…」

「何がだ?」

 

 ぽつりと落とした言葉に、隣で歩く堂上が問い返す。

 

「ほら、お月様。今夜は満月なんですって」

「……ああ、そうか」

 

 なんとなく二人して足を止め、夜空を見上げる。

 満月が眩しい光を放っているせいか、いつもより星の数が少なく感じられた。

 

「……月が綺麗ですねぇ」

 

 郁がうっとりと呟く。

 こんな綺麗なお月様を、教官と一緒に見られるなんて。

 ただ寮へ帰るだけの時間が、まるでデートのように感じられて幸福感に満たされた。

 

 ね、教官──同意を求めるように堂上を振り返ると、何やら妙に難しい顔をしている。

 

「月が綺麗ですね──か?」

 

 郁の言葉を噛みしめるように堂上が復唱する。

 別段、おかしな言葉を言ったつもりはないけど、と郁は訝しげに堂上を見つめたが、突然堂上が「俺もだ」と妙な返事をしたかと思うと、郁の腕を掴んで引き寄せる。

 

 突然胸の中に招き入れられ、背に回された腕が痛い程抱き締めてきた。

 

「月が綺麗で…。お前も綺麗で。おまけに明日は二人とも休みだ」

「え?教官、明日お休みなんですか?」

「ああ。さっき決まったばかりだ」

 

 よし、今から二人で出かけよう──ご機嫌な堂上が弾んだ声で誘う。

 

「えッ、い、今から?」

 だってもう夜ですよと困ったように返した郁に「夜だからいいんだろ?」と堂上は悪びれずに続ける。

「柴崎、寮にいるんだろ?外泊届け頼んどけ」

「え、教官は?」

「俺は小牧がやってといてくれるだろ」

 

 今夜の郁はすごく可愛いからこのまま帰したくない、と耳元で甘く懇願すると、頬をパアッと赤く染めた郁が黙り込んだまま頷いた。

 

「それに、せっかく郁が俺に熱烈な告白をしてくれたことだし。俺もその気持ちに応えないと」

「……は?…こく、はく?」

 

 上機嫌な堂上に、郁は不思議そうに小首を傾げた。

 

 ──熱烈な告白…って?あたし、なんか言ったっけ?

 あたしがしたことと言えば、柴崎に言われた通り二人で月を眺めただけ。

 ああでも、柴崎がわざわざ教えてくれなかったら、今夜が満月だってこと、気付かなかったかも。

 いつもは酔っ払って教官に負ぶってもらって帰るだけだもんなあ。

 

 柴崎のアドバイスのお蔭で飲み過ぎることもなかったし、二人で月を眺めることも出来たし、満月はとっても綺麗だし、しかも教官すごく楽しそうだし、おまけに外泊していこうってお誘いまでされちゃった。

 

「明日は二人とも休みだからな……多少無理しても大丈夫だよな」

 

 なんだか幸せが一度にどどっと押し寄せてきたせいで、郁はすっかり舞い上がっていた。

 そのせいで、悪戯っぽい堂上の言葉を聞き逃したことに気付いていない。

 

 柴崎宛てに『外泊届けお願い』と短いメールを送ると『さすが月が綺麗な夜だけあるわね』となんだか意味不明な答えが返ってきた。

 

 

 了

 

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