+ 揺蕩う +

 

 

 

 

今夜は鍋でもやるか。

 

 そう言い出したのは堂上のほうだった。だから郁は当然のように頷き、買出しも付き合うと言って部屋着を着替えて外に出た。

 夏らしい明々とした夕方だった。行き交う人々の横顔は同じ色に照らし出され、それは堂上と郁にも例外なくあたたかく降り注ぐ。

 だからもしかしたら、その表情はよりはっきりと堂上の目に映ってしまっていたのかもしれない。たとえ堂上が何時間も前から郁の異変に気づいているのだということを、郁自身が理解していたとしても。

 

「郁」

 白いビニールががさがさと鳴る帰り道。堂上に声をかけられてもすぐに返事ができなかった。こうして二人で他愛ない買い物をしている最中でさえ頭の中の黒い思考は勝手に渦を巻いていく。

「郁」

 もう一度、今度は先ほどより一回りはっきりと呼ばわれた。これ以上の聞こえないフリは続行しかねる。身長の都合により、郁が堂上に顔を見られないようにするには堂上より半歩前を歩くしかなかった。腹を括って振り返ると案の定、堂上は基本的には郁にしか見せないその笑みを浮かべて立ち止まっていた。微笑んだまま堂上は何も言わない。ただ真っ直ぐに郁を見つめているだけだ。これ以上ないほど、愛しさの光が迸る瞳で。

 

 ただ、見つめられただけ。それだけだったのに郁の双眸はあっという間に決壊した。

 官舎まで目と鼻の先の、公園の入口の前に影が伸びる。ふたつ伸びる。夕暮れのオレンジに染められながら、子供たちがカラスと一緒になって家に飛んで帰る時間。誰もがあたたかな場所へと帰る幸福な時間のはずなのに。

「………篤さん」

 零れた声は自分でも戸惑ってしまうくらいに弱々しかった。堂上は郁の手を掴んで公園の中へと進む。歪んだ視界で足元がよく見えずに、郁はその腕にぎゅう、としがみつく。

 

 木立に隠れて、少しだけ甘えた。堂上の肩はいつもと変わらずあたたかく、てのひらもいつもと変わらずにさらさらと髪を梳いてくれる。

 

 最後に、手塚と柴崎の並んだ背中を見送ったのはいつだっただろう。夜に偶然コンビニで手塚と出くわしたときの一幕が記憶の最後にあった。まだ柴崎の元に、あのクソみたいな写真が届く前のこと。

『呑みにいくの?』

 レジでアイスの支払いを済ませてから、経済誌をパラパラめくっていた手塚のところへ向かった。ああ、と返ってきた声が結構本気で渋かったのを覚えている。

『毎回毎回、よくもまああんなに呑めるよなぁあいつ。あの細っこい体のどこに入ってくんだか……』

 そのわりには満更でもなさそうよね、あんた。そう言ってやってもよかったのだが、あえて何も言わずに笑うにとどめた。柴崎のことで満更でもなさそうに顔をしかめる手塚を見ていられるのが嬉しかったからだ。

 先にコンビニを出て少し歩いたところで、「細っこい体」がひとつ、同じ自動ドアをくぐったのが見えた。雑誌コーナーで落ち合う姿がなんだかとてもうれしくて、思わず駆け出した。やっぱり、あたたかな夕日の中を。

 そうして同じ夕日の中で、郁は堂上に抱きしめられている。頭の中ではなおも激しく渦がとぐろを巻いている。

 

 ぐちゃぐちゃだ。もう、ぐちゃぐちゃだ。

 

 あたしがぐちゃぐちゃになったって構わない。でも、柴崎がぐちゃぐちゃになるのはいやだ。

 

 なんで。なんで柴崎ばっかりこんな目にあうの。なんであたしばっかりこんなに幸せなの。どうして柴崎には辛いときに抱きしめてくれる人がいなくてどうしてあたしは自分が辛いわけでもないのに慰められてるの。

 消えちゃえ。あたしなんか。幸せなあたしなんかきえちゃえ。

 

「郁」

 遮られて気づく。無意識のうちに声と化した言葉は堂上の耳まで届いていたらしい。

「落ち着け。大丈夫だ」

 やっと終息を見せはじめた双眸の滝はまるで、心の中に溢れ返った渦が流れ出た証のように思えた。それくらい、すう、と。黒く淀んだ思いが全身から流れ出ていく。背中をさする手があたたかい。

 どうして柴崎の隣には、こんなあたたかな手の持ち主が居てくれないんだろう。

「………いつか、」

 押し出した声はみっともなく掠れていた。そんなみっともない姿を、当然のように受け入れてくれるひと。

「いつか柴崎にも、来るよね?」

 こんなふうに、誰かの腕に守られて安らげる日が。最後まで言葉にはしなかったのに、堂上は一切の躊躇なく頷いた。

「ああ、もちろんだ」

 耳元で力強く肯定されて、郁はやっと安心してその肩にくたっともたれかかった。堂上の男っぽいにおい。遠く響くひぐらしの声。

「今度、柴崎と二人で鍋でもするといい」

 郁が落ち着いてきたタイミングを逃さず、堂上がそう言った。ん、と頷きながら顔をあげ、

「でも、なんで夏に鍋なの?」

 実はさっきからずっと気になっていたことを問うた。する堂上はからりと笑んで、

「クーラーできんきんに冷やした夏の部屋で食べる鍋というのもなかなかオツなもんだぞ。どれだけオツかは食ってみればわかる」

 答えながら改めて郁の手を握った。

「暗くなる前に帰るぞ」

 足元に放置していたビニール袋を拾い上げる。まだ涙目のまま、郁はこくんと頷いて歩き出す。

 

 来週は柴崎と鍋をしよう。

 堂上の手のぬくもりをいつも以上に感じながら、橙のまぶしさの中、郁は心に決めたのだった。

 

 

 

fin.

 

thanks lyre(リラ)さま

(from 20140415)

 

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