5.だから、わざと不機嫌                  別冊Ⅱ(夫婦時期)   from  シトロン



 きっかけはささいな会話だった。
 それはやがて軽口の応酬となり、ヒートアップして口げんかの態になり。一気に畳みかけるように返した堂上の前に出来上がったのは、思いっきり頬を膨らませて拗ねた妻の姿だった。
 堂上の言葉はきつかったが、間違ってはいない。
 それが郁には腹立たしい。正論を突きつけられたら、感情で物事を考え口にする郁はぐうの音も出ない。出ない分だけ悔しさが募る。
 不貞腐れた郁はそっぽを向いて、だからな、と纏めようとした堂上の言葉に耳を貸そうともしなかった。その態度に堂上も苛立つ。
 こうなってしまうともう引っ込みがつかないのが、元来負けず嫌いで意地っ張りな二人だ。
「もういい、篤さんのバカ!」
「ああもう勝手にしろ」
 それが昨夜の出来事。
 堂上は先に寝室に入り、郁は拗ねたままソファで丸まって朝を迎えた。
 朝起きても事態は変わらない。いつもと同じようにテーブルについて一緒に食事は食べる。それでも目も合わせないしお互い一言もしゃべらない。
 山積みの仕事を片づける為に先に出勤する堂上が支度を済ませ、一人玄関に立って「行ってくる」と声を掛けても、洗面所に籠もった郁は返事も返さなかった。
 その態度に堂上は眉間の皺を深くし、
「遅刻間際に駆け込むみっともない真似はするなよ」
 と火に油を注ぐ余計なひと言を放ったのだった。
 

 その結果、特殊部隊事務室は朝から低気圧に覆われていた。外は晴れ、雲ひとつない真っ青な空が広がっているにもかかわらず。
「おいおいなんだこの空気は!今にも嵐が来そうじゃねえか」
 重苦しい空気に堪えかねた進藤が声を上げるが、堂上はむっつりと口を結んだまま。郁は不機嫌オーラ全開で「誰かさんのせいじゃないですか~?」とそっぽを向く。
 小牧と進藤は目を合わせて肩をすくませ、手塚は関わらまいとため息をついた。

 些細な夫婦喧嘩は良くあることだ。
 けれど、婚約前の1か月にも渡る冷戦の辛さはお互い忘れられない。だからケンカをしても出来るだけ早く仲直りする。それは二人が言葉にすることなく守ってきた不文律のようなもの。
 だから今回も同じように歩み寄れば済む話なのに。
 目が合うと、郁は思いっきり顔を背ける。カチンときた堂上が「上官として」冷ややかな言葉を投げる。ムッとした郁が言い返す。堂上が拳骨を落とす。
 ちらちらと目が合うたびにそれは繰り返され、時間が経てば経つほど二人の周りの気圧は下がっていった。
 最初はからかっていた仲間たちも今は遠巻きに見守るばかりだ。
「堂上、明日までに解決しといてよ。班の空気が悪くてやりづらい事この上ない」
「……悪い」
「どうせ意地の張り合いなんだろ? 懲りたんじゃなかったっけ」
 小牧に冷戦時期の事を持ち出されれば、苦りきった顔を向けるしかなく。堂上のそんな顔を見た小牧もまた、似た者同士すぎるのも困りものだね、と苦笑した。

 定時を少し過ぎた頃、郁は日報を堂上に押し付けるように提出した。やや乱暴ではあるが今日の業務内容はきちんとまとめられている。
 これだけ怒っていてもやるべき事はまともに出来るようになったんだな、と郁の成長に感心する辺り、堂上はまだ冷静だった。当の郁は不貞腐れた顔のまま「お先に失礼します!」と事務室を出て行ったが。
 まあいい、戻る場所は同じだ。帰ったらちゃんと話をしよう。
 そう思い、堂上は椅子の背もたれに体重を掛けて、小さく息を吐いた。……同時に、ふと不安がよぎる。
 郁が部屋を出る際、何か言いたげな目を向けた後、バタン!と大きな音を立てて閉めた事に。

 あいつ、ちゃんと家に帰るのか?

 もしかしたらどこかに……そう思うと途端に不安が肥大した。郁の思考は常に斜め上だ。堂上に耐性が付いたからと、郁が立ち止まってくれる訳ではない。
 追いかけて掴まえたいが、生憎堂上の机には明朝必要な書類がまだ一束残っている。本来の所有者は……当然ここにはいない。
 突き返す事もできず、堂上は荒々しく椅子を引くと書類に向き合った。



 結局庁舎を飛び出せたのは、定時から2時間が経過した頃だった。
 足早に官舎まで戻って見上げれば、2階の我が家に電気は着いていて。急いで階段を上り鍵を開けて家に入れば、ちゃんとそこに郁はいた。
 姿が確認できたことに安堵して、堂上は「ただいま」と声を掛けた。
 だけど郁は夕方別れた時と同じ表情、相変わらずの態度のまま。どうやら機嫌は全く直っていないらしい。小さな声で「……おかえりなさい」と返ってきただけ、朝よりはましと思うべきか。
 堂上はなかなか軟化しない態度に息を吐いて、寝室に向かった。

 部屋着に着替えて戻ると、食卓には夕食が並び始めていた。
 自分の分と、郁の分。夕食を作り終えた郁が、一人先に食べずに待っていたことに堂上はまたほっとする。
「いただきます」
 その声以外は相変わらず無言のままだが、テーブルについて二人揃って食べ始めた。
 今夜の夕食はメンチカツだ。少しずつ料理に慣れてきたとはいえ、郁にとってはまだまだレベルが高く、頑張って作ったと言える一品。
「うまいな」
 一口食べて、思わず堂上はそう言った。サクッと衣をかじると、中からはジューシーな肉汁が口の中に広がる。手作りだと分かるいびつさながら、味は確かに美味しかったのだ。
 ご機嫌取りをしたつもりはないが、郁は反応した。
「…どういたしまして」
 堂上の方を見て心底ほっとした顔を見せたかと思うと慌てて目を逸らし、小さな声で返事をする。そしてメンチカツに箸を差し込んで、パクリと大きな口でそれを食べた。
 一瞬見せた表情は喧嘩中とは思えないほど嬉しそうな顔だったのに、すぐに拗ねた顔へと逆戻りだ。
……どうしたものか。
 昨夜、どうでもいい喧嘩をするまでは二人で楽しく笑い合っていたのに。ほんの少しの言い合いから、丸一日嫌な顔しか見せ合っていない。
 なにせ目が合ったかと思うと不機嫌極まりない顔でそっぽを向き、口を開けばカチンとくる物言いで返してくるのだ。
 堂上も、自分の言った事は間違っていないと言う意地と、そんな郁の態度に苛々し、向き合おうとしなかった。仲直りのきっかけなど見つかるわけがない。

――――ん?

 何かがひっかかった。
 違う。
 きっかけは……本当になかったのだろうか。
 郁の様子を思い返してみると、いつもの喧嘩と少しずつ状況が違うことに気が付いた。

 面と向かうと睨みつけてそっぽを向くくせに、ふとした拍子に視線が合う事が何度もあり。
 衝動的に家出するかと思ったのに、ちゃんと帰宅していて。
 郁には難しく手間も掛かる料理を、今日わざわざ作っていた。そして先に食べずに、堂上の帰宅を待っていた。
 食卓で向かい合っている今も、そっけない振りをしてメンチカツを食べながら、それでも郁はちらちらと堂上の方を見るのだ。

 堂上は唐突に理解した。
 理解したら、郁の挙動は至って単純だった。それに気づかない自分は、どれだけ頭に血が上っていたんだろうと思う。
 堂上が分析と対策を練っている間に郁は夕食を食べ終えたらしい。食器を下げてシンクに運びお湯を浸すと、物言わず食卓から離れた。
 風呂場へ行くか寝室に籠もるか――――堂上の予測通り、郁はリビングのソファに座った。
 それならば、やる事は一つだ。堂上は自分も食器を下げると、水を張ったケトルを火にかけた。



 コト。
 テーブルの上に置かれたマグカップから漂うのは淡く優しい香り。カミツレのお茶だ。
 テレビも付けず、軽く唇を尖らせてソファーの上で膝を抱えていた郁が、弾けたように頭を上げた。
「あつしさ……っ」
「飲みたかったから入れたんだが、郁もどうだ?」
 堂上が声を掛けると、郁は目を彷徨わせて、それから意を決したように目を合わせてきた。その様子を堂上は限りなく柔らかな瞳で見つめ続ける。
 郁の表情はずっと不貞腐れているのだと思っていた。けれど理由が分かった今は全くそうは見えない。
「あり…がと」
「ん」
 郁はおずおずとマグカップに手を伸ばすと口元に寄せ、冷ますように息を吹きかけてから一口コクンと飲んだ。少しの間があった後、ほぅっと息を吐き出す。
「…良い香り」
「そうか」
 郁の空気が柔らかくなった事にほっとしながら、丸一日触れることのなかった郁の頭へ手を伸ばし、ぽんと撫でた。それから堂上も立ったまま、手に持った自分のマグカップに口を付ける。
「………イ」
「……郁?」
 お茶を嚥下する音と重なって、囁くように呟いた郁の言葉は聞こえなかった。堂上が問い直すと、郁はマグカップをテーブルに戻し、また膝を抱える。
「…ズルい。篤さんは、ズルい……」
 拗ねた顔で小さく呟くと、そのまま自分の膝に顔を埋めた。そこでもまた「ズルい」と言ったのが、くぐもった声で届いた。
 そんな郁を見て、堂上はくすりと笑う。
 手にしていたマグカップを郁のカップの隣に置くと、堂上も郁の隣に腰を下ろした。それからもう一度、優しく頭を撫でた。今度はそのまま離すことなく、頭から後頭部に、時折背中まで降りてまた上がって頭の上に。堂上は宥めるように優しい力で撫で続けた。
 これがズルいという事は、分かっている。ただ堂上が先に『その言葉』を言う事が郁の本意ではない事ももう分かっていて、だから敢えてズルい態度を選んだ。
 やがて聞こえた、郁の声。
「……ごめんなさい」
「俺もだ。言い過ぎた、すまん」
 即座に返すと、郁は顔を上げて首を横に振った。
「篤さんのせいじゃないよ! 篤さんの言った事当たってたのに、あたしが食って掛かって、挙句拗ねてたから……」
「でも郁は、謝ろうとしてくれてたんだろう?」
 その途端郁はその大きな目をさらに大きく見開いた。そんなに驚く事かと苦笑したが、堂上だって気が付いたのはついさっきだ。
 郁の態度がどこまでが本当に不機嫌で、どこから後悔に変わったのかは分からない。
 だけど、土壇場になると素直だが基本的には意地っ張りで我の強い郁が、折れどころが分からなくて結局不機嫌な態度しか取れなかったのは、折らせてやれなかった自分が悪い。
 拗ねた感情そのままを受け止めてやれば良かったのに。
 水を向けてやれば、郁はちゃんと素直になるのに。
 郁の言うとことの『ズルい』態度は、あの時発揮しておくべきだったのだ。だから、
「俺が大人気なかった。お詫びに一つ何でも言う事を聞く」
「だからっ!悪かったのはあたしだってば!言う事聞くのはあたしだよ!」
「いや俺だろ」
「あたしです!」
 そんな不毛な言い合いを続けて、二人で顔を見せ合って、それから噴き出した。
 郁が相手だといつもこうだ。殊更冷静さを保っているはずの感情はあっけなく流されて、5歳年上の度量も余裕も形無しだ。
「じゃあお互い様って事で、一つずつ言う事を聞き合うのはどうだ」
 そう提案すると、むーっと先ほどとは違った顔で口を尖らせていた郁の顔が晴れた。
「うん!じゃあ篤さん先に言って?」
「いやここは郁が先だろう」
「だめ、あたしがいつまでも意地張ってたのが悪いんだからっ」
「いーく」
 またループになりそうな会話に、ここで自分が折れてやればいいんだよな、とか思いつつ堂上は郁の頭にまたぽんと掌を載せた。
途端に郁は口を閉ざして下を向いて。
次に顔を上げた時には、堂上に「いいの?」と殊勝に窺う顔で。
どうぞ、という意味を込めてその頭をくしゃくしゃと撫で優しく梳いてやると、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「えっと、じゃあ……」
頬を赤らめながら、言いにくそうに口ごもった後、郁は堂上の耳元に唇を寄せた。それからそっと、小さな声で一つのお願いごとを口にする。
「あのね、篤さんと―――――」
そっと耳元から離れた郁と堂上の目が、至近距離で絡まる。堂上は嬉しそうに破顔した後、
「奇遇だな。俺もそう思ってた」
殊更甘い声でそう囁くと、郁を二本の太い腕の中に閉じ込めた。

それからあとは―――――甘い、仲直りの時間。




だから、わざと不機嫌
    和 解 ノ 合 図 ヲ 見 逃 ス ナ




「だからって、なんで寝室……ッ!」
「郁の願いを叶えるためだが?」
「そんな事言ってないッ!」
「一人で寝るには広すぎるんだよ、あのベッドは」
「……やっぱりズルい。そんな風に言うなんて」
「嫌いか?」
「教えない!」
「まあいい、ベッドでゆっくり聞いてやる」
「……うん」





[End]


(from 20130717)