+ Melty love +   原作逸脱設定 (堂上の見計らいがアラフォー隊員時だという設定:つまり歳の差有り堂郁) 「Having you」の続編

 

 

 

 

 書棚を前にした郁の背後で、怒号と床を叩く音が同時に響いた。辛うじて立ってはいたが、両手は書棚に支えられている状態で、湧き上がる嫌悪感と吐き気を周りに気取られないようにするのに必死だった。
やがて確保ー!の声と、クソゥ、という声が重なり、事が収拾したことを郁に告げていた。
 
「ようやった。・・・大丈夫か笠原?」
直属の上官である渡部一正は、確保した犯人を部下に連行させ、小さく震える郁に声を掛けた。
「――平気です・・・」
ここは渡部に向き直って、ジョーク一発か笑顔で返すところだとわかっているのに、その一言に続く上手いリアクションがとれなかった。
 
 ――下着にまで、触られた。
 
 囮捜査は、武蔵野でも経験した。
図書館は「静かにしなければならない場所」という利用者の意識が高いために、痴漢のようなわいせつ行為にあっても声を上げにくい。そして並ぶ書棚はある程度の高さがあるため、死角も出来やすい。ある意味、満員電車の次にそういう輩に狙われやすい場所だとも言える。
 大好きな図書館で、そんな奴らの好きにされるなんて許せない。そもそも利用者が安心して本選びを楽しめないなんて在り得ない、という考えを持つ郁は、関西図書基地、図書特殊部隊の副隊長に「囮捜査、やれるか?」と聞かれれば、即「もちろん」と告げたものだ。
 
 囮捜査なんてやらなくても、警備強化で犯人を捕まえるのがベストなのだが、捕まえるには卑劣な行動を目撃、もしくは録画するなどの物的証拠が必要だ。いつ、どこで行われるかわからない卑劣行為を起こす輩をこちらの仕掛けた罠に寄せ付ける方が、利用者に危険も少なく確実だ、ということも理解している。だから――自分が囮になることに異論ななかった。
 
 それでも。
 
 時に理性は感情を超えられない。
バディであった渡部班長はちゃんとその事実を目撃し、犯人を確保するという任をきちんとこなした。郁自身がミニスカートで大外刈りを決めなければならないような格闘もなかったから、痴漢行為にあう、以外のサービスもしていない。
 
 ――それは、ゾクリ、なんて一言では表せない、全身を駆け上がる嫌悪感。その感覚が蘇らないように、ぎゅっと歯を食いしばり、小刻みに震える膝をまっすぐに伸ばそうとしているのに、力が入らない。
「郁、おい・・・肩、貸そか?」
その行為を目撃していた渡部は苦々しい表情で、でも気遣いながらそう声を掛けた。関西の連中はみな、郁のことを下の名前で呼ぶ。武蔵野で、そう呼ぶのはただ一人。でもその低い声が今、ここで耳に届くことはない。
ううん、と答える代わりに郁は首を横に振った。いつまでも此処にいるわけには行かない。自分がこの場から動かなければ、利用者も捕物は終わったのだと実感できないだろうから。
 右足に力をいれ、片手を書棚から離す。
大丈夫、震えさえ収まれば、あの感触を思い出さなければ――そうだ、事件解決記念だ、今日の夕飯は久しぶりに外食しよう。また班長に美味しい店紹介してもらおう、なんて、まるで違うことを考えていた時・・・・・
 
「――郁?」
 
 たった二文字をなぞったその声色に、郁は顔を上げてその声の主を探した。数メートル先から急ぎ足でやってくるその人は、眉間に深く皺を寄せていた。それでも――
「・・・堂上教官・・・っ!」
少し前まで震えていた足は床を蹴り、数歩駆け出したあとに、小さくジャンプして飛びついた。郁の軽い体を全身で受け止めた堂上は人目をはばかること無く、そのまま抱きしめ、声を掛けた。
「――どこ、触られた?」
「――っ、う、いえ・・・」
何も考えずに、体が咄嗟に動いたが、すぐさま此処は図書館内だと気が付き、堂上から体を離そうと身じろいだが解放されなかった。
「堂上副隊長」
お疲れ様です、と言うように渡部は会議に出向いて来ていた他基地の上官に敬礼した。郁は関東からの大事な預かりものだ。そしてその目の前の人物は期間限定の直属の部下である郁の――
「渡部班長、取り調べに笠原は必要か?」
「痴漢被害の事実についての報告書は必要です」
「目視確認は?」
「はい、自分が間違いなく」
「じゃあ取り急ぎ警察への引き渡しはできるな。報告書は明日午前中の提出で問題在るか?」
「いえ、それであれば――」
他基地の、とはいえ、図書隊総本山である関東図書基地図書特殊部隊の副隊長だ。その堂上の口調は極めて冷静で渡部を威圧するものではない、だが、自然と背筋が伸びるのを渡部は身を持って感じていた。有無を言わせないその――公私のバランスを取りながらも、元部下で恋人である彼女を庇護する強さを。
「――女子隊員のセンシブな事柄についてフォローさせてもらう、ということでいいか?渡部一正」
「了解、しました」
渡部の脳裏に一瞬、自分とこの副隊長の顔が浮かんだ。ここで上官の許可を、と返してもおそらく結果は同じだろうと判断した。事後報告にはなるが、自分も含めて、囮捜査を是と思っているわけではない。それは今後、関西にも女子特殊部隊員を本格的に配置するとなるのであれば、必要となる処遇でもある。
 
「郁、歩けるか?それとも、抱き上げるか?」
それまでとは打って変わったような堂上の声、いや、その低く響く声色は少し前まで直属の上官のものであったはずなのに、何故か甘く、郁を変化させる魔法の声だ。
「びょ、病人でもけが人でもありませんって!そ、それよりどうして・・・」
今日関西に来るなんて聞いてない!自分も堂上も公休ではないはずで・・・。
「今朝、出勤する前に、隊長から出張代われと言われた。俺は東京(こっち)で寄る所ができたからと、詳細は聞く暇もなかったがな」
実は、その詳細の無い外出は大概、折口絡みだということを堂上は知っている。それが、公なのか私なのか図りかねるが、あの二人は男女という括り以上に運命共同体だと互いが思っているように見える。だが、自分の腕の中にいるこいつは――
「元部下のフォローをする許可は、ちゃんとお前の班長に貰った。堂々としけこむぞ」
「しけこっ・・・」
ちょ、そんな身も蓋もない言い方オジサンっ!ってその場で叫ばなかったことを褒めて欲しい。まだ図書館内だし、同僚達もいる職場なのだから。
ともあれ、いまさらのお姫様抱っこは勘弁して欲しいからと、必死で自分の足で歩き図書館を出た。
 
 
 
寮に戻ってシャワーを浴びるのは時間がもったいない、と却下されたが、とりあえずこのミニスカートを含めた囮衣装を早々に脱ぎ捨てる許可はもらえた。自室でレギンスとニットワンピに着替えてコートを羽織った。下着や化粧ポーチを適当にかばんに詰め込んで、急いで共用ロビーまで駆け下りた。なにしろ、待たせているのは関東の特殊部隊副隊長殿なのだから、寮内の緊張感を無駄に増してしまうのは本意じゃない。
「・・・お待たせ、しました」
「外でタクシーを拾う」
郁は手を引かれ、無言のまま堂上についていった。車に乗り込んだ時に告げた一言で行き先はわかった。基地からもさほど遠くないホテルだったが、誰の目にも触れさせまい、という意図だろうか。人混みや周りの視線を気にせず移動をと配慮をしてくれるところは、さすがだと思う。
 
 
すんなりとチェックインを終えて、ホテルのエレベーターで一気に高層階へ駆け上がった。
部屋にはいると、すぐ荷物とコートを取られ「風呂、入るだろう」と、湯船にお湯を張られた。閉められた脱衣所のドアの向こうから聞こえる水音が小さくなって、ぼんやりとした思考の中で堂上が口を開くのを待った。
「どこ、触られた?」
ベッドの縁にちょこんと座っていた郁の前に膝立ちして、下から郁を見上げる。声色は低かったが、瞳はほんの少し潤んだように見えた。
「あ、の・・・、別にほら、こんなこと初めてじゃないですし、犯人捕まえられたからそれでもう」
それは嘘では無く本心だった。
どこだと聞かれて、その相手が堂上であっても――いや、堂上だからこそ言いたくない。
「大事な女が震えてるのをみて平気なはずないだろう」
膝においていた手に、ゆっくりと堂上の掌が重なった。触れられることに郁が嫌悪を抱かないかどうか、と堂上は向けた視線を逸らさずに郁の様子を伺う。
こんなんこと、大したことじゃない。
任務だと割り切ろう、という気持ちと、忘れられない感覚との狭間で混乱する。
 
――この人に、凄く心配をかけている。
 
あのとき、堂上が現れなければ、情けなく嫌悪感に震えたままだったかもしれない。みっともない姿を隊員にも利用者にも見せ続ければ、図書館は安心して利用できる場所ではなくなってしまう。一人前の隊員として関西に送り出されたはずなのに、未だ尊敬する上官に縋ってしまった。見つめられる漆黒の瞳をそらせないまま零れそうになる涙をこらえ、謝罪を口にした。
「心配かけて、すみません・・・堂上、副隊長・・・」
郁が武蔵野を発ったと同時に副隊長となった堂上に、郁は慣れずについ『堂上教官』と呼んでしまうのが常なのに、たどたどしくも副隊長、と呼称した。恋人とふたりきりだというのに、その任から未だに釈かれずにいる郁の心に、頬に、堂上はゆっくりと片方の手だけ伸ばした。
 
「もういい、いいんだ郁。奴は捕まった。偶然とはいえ、俺はお前のすぐ傍にいる。存分に俺に縋れ」
仕事のスイッチを切れ、と堂上は伝え、郁の隣に腰を落とすとゆっくりと体を引き寄せた。真綿を包み込むように、柔らかくゆっくりと、郁が怯えないように。
 
抱きしめられて、堂上の匂いと温もりに包まれて、ようやく郁は「きょうかん・・・」と呟いた。堂上の背にゆっくりと両腕を伸ばしてようやく抱きしめ合った。
泣いても、いいのかな。
そう思う前に自然と目尻から涙がこぼれ落ちた。まだ、情けなさと、嫌悪感と、温かさがごちゃごちゃだが、ただただこうしていて良いと無言で伝えてくれる堂上に縋った。
体も、頭も、みんな堂上に預けている間、堂上は無言のまま受け止めてくれた。
やがて、遠くで聞こえていた水音も消え、堂上は耳元で「郁」と呼びかけた。
「入るだろう、風呂」
「はい・・・」
郁が消え入るような声で答えると、ゆっくりと拘束は解かれた。郁を立たせるとそのまま寄り添って脱衣所まで案内し、甲斐甲斐しく準備を整えた。
「一緒に入ってやろうか?」
「い、いいですっ、それは無理っ!」
照明の明るい風呂場で、初めてではないとはいえいきなり一緒に入るのは大いに抵抗がある。未だそんな、開き直れないっていうか・・・、いや将来的にもそこはハードルが高い・・・!
わかった、と言うように郁の頭で堂上の掌が跳ねる。
「待ってるから――何も考えずに出てこい」
それが心配顔をする堂上の最大譲歩だったのかもしれない。
 
 
 
 疲れた心と体を湯船の中で開放すると、あの出来事を考えてしまいそうになる。報告書も日報も上げずに、堂上の言うままに帰寮してしまったが大丈夫だったのだろうか、という懸念やら、関東の副隊長殿に押し切られた渡部班長の立場とか、この顛末をきいた大園副隊長の怒号とか・・・。そして最後に見た犯人の薄気味悪い笑い顔を。あの男、反省なんかしてない、きっと。そう思うと自分のやってることは無駄なのか、という思いも沸き起こる。そして脳裏から消し去ろうとする嫌悪もまた・・・。
ああもうっ、とばかりにガバッと湯船から飛び出し、さっきも丁寧に洗った太腿にまたボディシャンプーを滑らせる。
 
気持ち悪い、穢らわしい。
 
あんなところまで触られた、なんて堂上にはとても告げられなかった。もっと早く身を守れなかったのが悪いのだと、自分を責める。強くないあたしはきっともっともっと穢れていく。
 
弱く穢らわしいあたしが、教官に縋るなんて、それは――
「郁、のぼせたか?」
浴室の擦りガラスの向こうから声がした。
「いえ、すぐ出ます」
シャワーコックをひねって、結局頭から全部に湯をかぶった。穢を流すだけ流して、涙も、混乱する感情も――今は、待っている堂上の元へ早く行こう、と雑念を振り払って、手早く身支度を整えた。
 
 
下着を替えて、何を着ようか迷ったが、少し悩んで着てきたニットに再び袖を通して、静かに脱衣所の扉を開けた。
「・・・堂上教官」
調べ物だろうか。スマートフォンを片手に、熱心に画面を覗いていた堂上にそっと声をかけた。
ショルダーバッグしか手にしてなかった堂上は日帰り出張なのだろう。東京行き最終の新幹線までには解放しなくてはならない。
「暖房入れたんだが、暑いか?」
ううん、と首を横にふった。堂上はタオルドライしかされていない髪を触り、「ちゃんと乾かせ、馬鹿」と叱咤しながら郁から取り上げたタオルで拭き直した。
「・・・今日は?」
日帰りですよね、の意で郁は訊いた。ワイシャツ姿の堂上は、郁の腕を引き、再びベッドの縁に座らせた。
「今朝移動しながらお前にメールは入れたんだ。急な出張で関西へ行く、と」
囮捜査のためスマホは事務所に置きっぱなしだったので気が付かなかった。
「日帰りのつもりだったが泊まる。元々隊長の無茶に合わせた急な変更だ、明日の予定ぐらいなんとかしてもらうから安心しろ。お前の班長と明日報告書を提出させると約束したからな。今日中にお前を万全にしとかなきゃならん」
「いえ、それは――」
あたしの問題ですから、と続けたかったが遮られた。
「報告書を書くということは、あの時の一部始終を思いなぞる事になる」
ホテルの、薄暗い照明の中でもはっきりと分かる堂上の真摯な眼差し。こうなったら駄目だ、一人前であろうとしても、強がることはこの人の前では無理だと観念する。上官としてはもちろんだが、プライベートでの関係が変わって以来、降参してくれたのはハジメテの時だけで、開き直った年上の恋人に勝てたことなんて一度もないのだ。
「・・・下着まで、触られました」
触られたといっても、下着一枚ではなくミニ丈スパッツも履いていた。でも奴の手は郁のスラリとした脚を這い上がった後、堂上にしか許したことのない大事な場所を指先で撫でた。悔しいけど、その一言だけなのに口にすると同時に悔しさと感触が蘇り、耐えるように瞼を強く閉じた。
辛い告白をした郁を再びゆっくりと胸元まで引き寄せ、いたわるように柔らかい髪に指先を伸ばした。
「――俺が、これからそこ触れるのは有りか?」
郁はその言葉を直ぐには理解できなかった。顔を少し上げ、間近にある堂上の表情を伺う、と伏せられた瞳が。
「すまん――俺も、いろいろ混乱した」
「・・・教官?」
郁がそう問うた時には、漆黒の瞳は開かれ郁を見下ろしていた。
「囮捜査は、確かに関東(うち)でもやってた事だ。痴漢野郎に部下を差し出すなんて上官としても、普通の男としても胸糞悪い。それを部下に強いる立場の歯がゆさも解るし、お前が利用者の安全のために囮になる心意気も解る。だが、女としての辛さは、解ってやりたくても、解っているつもりでも、結局お前にしか解らない」
ため息をつくように吐露された言葉に郁は驚いた。
「まして俺の女だぞ、差し出されたのは」
「今日はあたしに隙があっただけで・・・」
そうだ、触られたという事が確認できれば良いのだ、あたしが、タイミングを測り間違えただけだで――何故、教官がそんな苦しい顔を。ため息をつかせるなんて、そんな・・・
「馬鹿、お前を責めてなんていない。強いて言うなら、お前に成り代われない俺を責めるべきか?」
「・・・ど、堂上教官の女装姿とか、見たくないですっ」
「そうだな」
深みのない言葉を交している風なのに、互いの気持ちは重いままだ。でも、こんな風に弱音を吐く堂上は珍しい。好きな人に抱かれる心地良さに癒やされているのはあたしなのに、混乱した、と吐露した堂上に愛おしさが募る。
 
追いつけるはずのないこの人に、せめて付いて行きたい、と背伸びした自分が、いま、この人を癒やしたいと思う――
 
「・・・有り、です」
「・・・」
頼もしい恋人が見せる憂いのある顔に、そっと手のひらで触れる。
「触れてください――教官の手しか、思い出せなくなるくらい」
頬に触れる手のひらを2つに増やして、一筋の涙で濡れた唇を堂上の乾いた唇に寄せた。
 
 
 
 
喉の乾きを感じて目を開けると、しっかりと堂上の温もりに包まれたままだった。
どろどろに融け合う、という表現がぴったりなくらい、激しく絡みあった自覚はある――案の定、どちらも一糸も纏わずに眠り落ちていた。
 
どうなってもいい――そんな思考に陥りながら抱かれたのは初めてで。
自らを投げ出しながらも、堂上に縋るような求めるような、もっと、もっと欲しいという思いに塗れる郁を、堂上は激しく揺さぶりながらも丁寧にし尽くした。
上手く言えないけど、乱暴にも、大事にもされたような。
 
何度も昇り詰めて、最後はどんな風だったのか思い出せない・・・。そのことが急に恥ずかしくなり、胸元の布団を引き上げて潜り込んだ。
 
――この人にも、関東のみんなにも恥じない自分でいたい。
愛されている、心配をかけた、だからこそ。
 
今日は通常勤務だ。公休日の逢瀬と勘違いしてしまうところだった、とベッドヘッドのデジタル表示を見ようと身じろぎ顔を出したとき。
「何時だ・・・?」
「4時半すぎ、です」
やはり敏い人だと感心した。また腕の中に呼び戻され、額にキスを落とされた。
「――寮に戻らないと」
腕に抱かれる心地よさに甘えてしまいそうになるが、夜明けはやってくる。離れる前に欲しくなって、珍しく郁の方から顔を上げてキスをねだった。挨拶のキスのように交わし始めたそれは、離れがたいというように深くなった。
「一緒に入るか?」
夜と同じ事を堂上は聞いた。
「ダメです。もう、平気だから――」
少し待っててください、と小さく言ってベッドを抜けだした。もう、十分甘やかせてもらったから。
 
交互にシャワーを浴び手短に支度を済ませた。ここのモーニングビュッフェは6時から開いてるから、食事してから基地へ戻ろう、という堂上の提案にうなずいた。
でも。
「教官、あたし一人で平気です」
「郁・・・だが報告書を――」
思い出したくないことだから、と配慮されているのは解る。でも――
「関東さんは保護者付きでないと囮捜査もできないのか、って言われちゃいます」
決して強がりじゃない、信じて。それでも少しだけ最後に、と郁はワイシャツ姿の堂上にそっと抱きついた。腕を背にぐっと回して。
「・・・教官が全部、融かしてくれたから、平気」
「わかった・・・あちらさんには電話だけ入れておく」
「副隊長?」
「ああ、じゃなきゃお前の班長に悪いだろう」
「もう慣れてると思いますけどね」
抱き合いながら、二人はクスリと笑った。偶然でも、なんでもこの人がいてくれてよかった。ああ、玄田隊長に感謝しないと。
「そこはいらん」
「え?」
「隊長には結構振り回されてるんだぞ、知らんだろうが」
「でも今回はお礼言わないと、です、あたし」
「だめだ。俺のおかげだとつけあがるから内緒でいい」
月一で研修中の報告書をあげるので、内緒になんてできないはずないけど。
 
鬼教官で、頼れる、憧れの上官であっただけど堂上ではない、この人の心の声に触れるたびに、憧れが募る恋愛感情じゃないものが少しずつ大きくなっていく。好きだという感情以上の愛しさ。いつも、こうして支えてもらってばかりだと思っていたのに、もしかしたら、あたしにもこの人を支えてあげられる何かが在るのかもしれない、とそんな感覚に陥る。婚姻届を預けたのは勢いだったけど、この先も、こうして寄り添っていけたら、そんな気持ちの先に、あるべき形だとしたら、迷いは無い。
 
「教官、あたしモーニングビュッフェ食べてから寮に戻りたい・・・」
基地まではすぐだけど、着替えがあるのでギリギリという訳にはいかない。
「じゃあ、その前に俺にも食わせろ」
お前を、という言葉を紡ぐことなく深く口づけを交わした――次の逢瀬までの分をたっぷりと。
 
 
 

fin

(from 20151231)

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