+ 花見月 +   上官部下期間








「ん、いいよ笠原さん。お疲れ様」

その日の業務は定時に終わり、いつも通り自机で日報にとりかかる。
いつも通りでないのは、提出先が堂上ではない点だ。班長会議の後そのまま来年度の教育隊の打ち合わせに行くから、と日報は副班長の小牧に提出するように言われていた。
机に置かれた用紙に真剣に向き合って今日は手塚と変わらない時間で提出した。
「小牧教官はまだ...?」
「堂上に頼まれた仕事があるから、もう少しね」
「はい、じゃあお先に失礼します。お疲れ様でした」
深々と頭を下げてから、郁は事務所を出ると訓練速度で帰寮してそのまま食堂に向かった。


早めの夕食を終わらせ自室で少し胃を休めた後、郁はジャージの上下と首にタオル、というトレーニング仕様の出で立ちで寮の玄関へと向かった。
寒暖の差が激しい春の夜だが、これから走るのだから少し寒いくらいでちょうどいい。
郁は玄関でシューズの紐ときゅっ、と結び直してから基地の通用門へと歩き出した。


業務の都合で訓練時間が取れなかったりして身体動かしてないなぁ、と思う時にはこうして時々夜に走ったりする。
大概は陸上トラック内を走るのだが、今日は目的があったので郊外ランニングだ。
-----------そしてもう一つの理由は今日は満月だったから。

ピッ

門のところでIDかざすと、顔見知りの守衛担当の防衛員が「お、コンビニスイーツ調達か?」と声を掛けてきた。
「今日は違います!」
からかわれて郁はわざとふてくされた風に返答した。
「あんまり遅くなるなよ」
わかりましたー、の意で後ろ手を軽くあげて、コンビニとは違う方へと軽く走り出した。



駅への道すじとは違うが、基地からそう遠くない処にその場所はあった。
「うわあぁ・・・・・・」
思わず独り言の感嘆が声になって漏れた。

浄水場の境界フェンス沿いの側道に並ぶ見事な桜の木々。通りの反対側は上水が流れる緑道はそれほどライトアップされているわけではない。
だけど今日はタイミングよく月も明るく、浄水場の外灯と共に見事に枝を開いたソメイヨシノが夜の闇にぼんやりと浮かんで美しい。
基地の中にも立派な桜の木々はあるけど、こうして通りに並ぶ夜桜をみるのもまた違った感動があった。
郁はペースダウンしてゆっくりと斜め上を見上げながら、薄暗い夜道に咲く華を堪能することにした。






◆◇◆






コンビニの袋を片手に小牧が寮へと向かっていると、偶然特殊部隊庁舎から退出してきた堂上と寮入り口付近で遭遇した。
「お疲れ様、今帰りなんだ。そういえば笠原さん、グランドで走ってた?」
「笠原?いや、たぶん誰も走ってなかったぞ」
「そう?今日はすんなり日報出してすぐに上がったし、さっきジャージにタオル撒いて出て行く処を見かけたから、てっきり自主トレでグランド走ってるのかと思ってたけど、外に出たのかなぁ」
それを聞いた堂上の顔が少し曇る。
「暗いところに行ってなければいいけど、つい昨日も不審者出没注意のビラもって警察官が来たからちょっと心配だね。笠原さんにはそのこと直接言わなかったかもなぁ」
警察の訪問が近隣の利用者に注意喚起する張り紙をさせてほしい、という物だったので隊員へあえて伝えてなかったかもしれないと、小牧はちいさくため息を漏らした。

「・・・わかった。どうせ飯も買いに行くからその辺見てくる」
堂上がそう言い出すのを判っていた風な小牧に自分の書類鞄を預けて、通用門の方へと方向転換をした。





◆◇◆





満開の桜が時折風に吹かれて、少しずつ花びらを飛ばしていくその様を見る度に「ああ、あたし日本人で、日本にいてよかったな」と郁は思う。
それほどこの光景が郁の心と昂ぶらせる----------
桜の名所でもない、普通の散歩道であるその場所に、郁はただただ立ちつくしてその何物にも代え難い光景に何もかも囚われる。

----------こんな光景、好きな人と一緒に見れたらなぁ。

1人でも泣きたくなるほど幸せな光景なのだが、もっと、もっと、その想いを誰かと共有したい、でも満開の桜の美しい様をみて涙が出るなんて、恥ずかしくて人には言えない。
立ちつくしてずっと見上げているのに少し疲れて、緑道の途中に置かれているベンチに1人座った。
時々通り抜けする車が横切って行くが、あまり人が通ることはない、地元ならではの桜の名所。
昨年は昼間に見に来てとても綺麗だったので今年も満開の時に見に来たい、と思っていたのだが、タイミングよく公休がなくて昼間には気そびれてしまったのだ。薄暗いから綺麗だ、といっても郁だけがそう感じるだけかもしれないけど。ぼんやりと桜を見上げて少しだけ肌寒さを感じる風の音と桜の舞を堪能した----------





守衛に聞いたらコンビニとは違う方向に走っていったというので、もしかしたらここなんじゃないかとあたりをつけてきた。
基地外へ走りに行くとすれば、桜かもしれない、と。

「今年の桜は予想外に開花が早くて、花見の予定も立てられなかったですね」
あっという間に開花宣言が出た数日後に郁がぼやいていたのを思い出した。基地の桜が綺麗だと言っても、たしかにその木の下で宴会を催す訳にはいかない。
それでなくても年度末は書類の締めも忙しいし、すぐ来る来年度の新人教育の準備でシフトもタイトなのだから。

学校も在るせいか道路沿いにも桜は立ち並ぶが、駅から少し離れた処を流れる上水沿いに並ぶ桜と反対側の浄水場にも咲く桜、緑豊かなその場所は住宅地のする裏とは思えない静かな場所だ。
フェンス越しではあるが芝生の緑が続くこの場所は開放的なので、外灯と月の光が明るく照らして、それほど暗くは感じない。だが上水に沿う緑道は樹木が茂っているのでやはり暗く女が1人で来るところではない。数百メートルと続くこの一本道に郁は居るのか?
ポケットから携帯を取り出してコールするが、案の定「電源が入っていないため---」のアナウンスが聞こえてきて、小さくクソっ、と吐いた。
少しは危機感を持て、アホウ。

仕方ない、と往復すれば一キロを越えるのを覚悟で緑道へと脚を向けた。

道すがらスポーツウエアに身を包んだランナーとすれ違ったが、やはり歩いて夜桜を鑑賞しているらしい人はいなかった。
時折肌を刺す風がまだ少し冷たいが、緑の木々を揺らすのと同じく満開の桜をも刺激する。
その瞬間、まさに桜吹雪が辺り一面を包みその世界はうす桃色一色となる----------

みつけた。

満開の木々から吹き飛んでいく花びらを一心に見つめる郁の姿を。
桜の舞と見上げた女の横顔に心囚われ、その場にしばし立ちすくんだ。

散り飛んだ花びらで一瞬明るくなったその世界を見つめてすーっと泪を流す女の横顔は---------恐ろしい位美しかった。

言葉を失うほどの美しい光景を壊したくなくてしばらく何も言わずに黙って眺めていたが、時折流れる涙がやけに気になった。

--------お前は何故、今泣いてるんだ?


「笠原」
見つめる堂上の気配に気づく事がなかったので、驚かせないように遠くから静かに声を掛けた。
それほど大きな声ではなかったが、郁の耳に届いたらしく、こちらへ目を向けた。

「堂上教官」

少し目を見開き驚いた様子も伺えたが、柔らかな笑顔で俺を迎え入れてくれた。
「・・・教官も花見ですか?」
「馬鹿言え。お前図書館に貼ってある張り紙見たか?」
「張り紙?え、あ!不審者注意の?」
「知っててこんな人気の無いところへ来るか、普通?!」
「う・・・でも」

「見たかったんです、ここの夜桜が。ライトアップはされてないけど、満月だから少しはよく見えるかな、って思って」
こんなに美しい光景、見ないなんてあり得ない。
「みんなを誘ってお花見、という場所でもないですし・・・」
時折、車も通るから平気かな、って。

「馬鹿っ、上水側は十分暗いだろう」
「だ、大丈夫ですっ。戦闘職種ですよ?あたし、痴漢撃退はお手の物ですから」
「そういう問題じゃないだろう」


あんな姿見せられたら、抱きしめたくなる。

花吹雪の中でほろりと泪を流すお前とみたら、誰もが放っておけない。

堂上は少し歩を進めて郁の横に立つと、頬に人差し指を乗せてゆっくりと泪の跡を拭った。

突然少し無骨な指で頬を触れられた事に驚き、郁は堂上を見た。深く綺麗な漆黒の瞳に桜の白色が映り込むそのコントラストに見惚れる。

「桜が・・・凄く綺麗で。・・・凄く幸せで」

好きな人とこんなに美しい光景が見れたら、凄く幸せだろうな、って思っていた。ううん、あたしが幸せだと想う気持ちを、好きな人と共有できたらそれが一番幸せだろうと。

ああもう!
ここで堂上教官に会えて---------逢えて。
「心配掛けてすみません・・・でも、教官と一緒ならもう少し見ていても構わないですか?」

見つめられた瞳と一緒に寄せられていた眉間の皺が少し綻んでから、いつもの掌が頭の上で跳ねた。

「ああ心配した。その代わりに、少し休ませてくれるか?」
「はい」
教官も座りますか?と思ったら後ろからゆっくりと伸ばされた腕に郁の身体は包まれた。
そして肩越しに感じる教官の匂いと吐息----------郁の心はきゅんっと跳ね上がる。

暖かい。

堂上の熱を背中に感じて、夜の静けさとは裏腹に郁の心臓はどんどん加速していく。
だがそれが心地良い。心の奥は動悸を携えているのにも関わらず、堂上を感じる五感は脳内を駆けていきながらも郁を安心させていく。


このままずっと抱きしめられていたら。
あたしもこの桜と同じように綺麗に散っていっても本望かもしれない。
こんな風にしてもらえるのは、堂上教官の「特別」だから?あたしが「特別」になれる可能性はどれくらいありますか?

「好きなんです・・・・・・桜が」
好きなんです・・・堂上教官が。堂上教官が・・・好き。心の奥底に深く隠した乙女心を、ぎゅっと閉じこめる。

「ああ・・・俺もだ」

そう言われて郁は包まれてる腕にそっと自分の掌を重ねた。温もりに寄り添いながらも掌に力を込めて飛び出して来そうな乙女心を押さえつける。だってあたしには、そんなの似合わないから。まだ部下のままでも教官の側に居たいから。


まだ二人に吹く夜の風は冷たい。それだけに触れ合う温もりにいつまでも酔いしれたくなる。
郁はこれ以上、綺麗な桜と堂上の温もりに酔わないように、そっと目を伏せた。



 

 

「冷えるからそろそろ行くぞ」

「はい」

 

その腕が名残惜しそうにゆっくり解かれたなんて、郁は知らない。

先を歩く上官の背を見ながら元来た道を歩きはじめると、すぐに立ち止まった堂上に郁の掌を取られた。

 

「お前冷えすぎだ」

「えっ、だって走って帰るつもりでしたから」

だから厚着なんてしてないし。

「花見で冷えて明日熱でも出されたら困る」

堂上は自分のコートを脱いで郁に掛けようとした。

「きょ、教官、いいですって!あたし走って帰りますから」

「馬鹿!俺までスーツで走らせる気か?!」

「すぐ表道ですから、1人でも大丈夫ですし!」

「アホか貴様!!」

 

 

花心は判っても、男心が郁に通じるのはまだもう少し先になりそうだ-----------そんな春の始まり。 

 

 

 

 

 

 

fin

   SPECIAL THANKS  illustration by どらりぬさま

 

(from 20130325)