+ 素直になれなくて + ジレジレ期 2015冬コミ無料配布コピー本再録。オリキャラ有り。
――やられたー!
予報より早いゲリラ豪雨の到来に、郁は自慢の足で街中を駆け抜けた。
が、あっという間の土砂降りにはいくら郁の俊足でも敵うはずもなく、ずぶ濡れまでになる前に目に留まった小さな店の扉の前に立ち、わずかな軒下でとりあえず豪雨をしのいだ。
「ふうう」
口から自然と漏れたため息は、雨やどりできたという安堵と失敗したなぁという後悔の両方を表していた。
帰宅ラッシュ時の天気の急変に注意、と確かに朝のニュース番組では言っていた。だがもっと早く戻る予定だったので自分には関係ないな、と高をくくってしまった。
基地までの道のりではあったが、その日はいつも使っている商店街を抜ける道ではなかった。最寄り駅の反対口に所用があったので、そちらから直接帰る道を選んだのだ。
その道沿いは住宅と商店がぽつりと混在するような古びた建物が並んでいた。急な雨宿りといっても、人の家の前というのは忍びなく、とっさに飲み屋らしき風貌の扉の前に潜り込んだ訳だが、本当に軒下はその扉の分しかない小さなもので、郁一人が立つと扉の開閉も出来ない状況だ。
鞄と買い物してきた荷物を器用にもちながら、なんとかハンカチを取り出して不快な顔の水滴だけは拭いた。
このところ時々起こるゲリラ豪雨だから長くても一時間程で止むだろう、とは思うものの空を見上げても小降り成るような気配はなかった。
店の出入り口の横に置かれた看板を見ると「HONESTY <Cafe & Bar>」と書いてある。重厚な木の扉以外に窓もなく店の様子も伺えないが、Cafeとも書いてあるのだから、お酒だけのスナックの様な店ではないようだ。
いくら突然の雨でも店の小さな出入り口をいつまでも塞いでいるのも申し訳ないので、郁は意を決してその扉を押してみることにした。
カラン、と扉につけられた響かない鈴が鳴って、店の中から視線を浴びた。カウンター内に立つ男性は柔らかな笑顔で「いらっしゃいませ」と、低い声を響かせた。
窓の無い店内にしてはそれほど暗くもなく、外の怪しげなイメージよりは隠れ家的なBarというか、すこしこだわりのある店作りがされている感じがあった。
「雨降られたんですね、タオル使ってください」
店内にはその男性しかおらず、まだ支度中、というような雰囲気だったので、このまま店内に居てよいものなのか少し迷っていると、マスターなのであろうその男性がカウンターから郁に洗い立てのタオルを差し出した。濡れたままで風邪を引く訳にはいかないので素直に手を伸ばしてタオルを借りた。
「ありがとうございます、遠慮なくお借りします」
カウンターの一席に荷物を置かせてもらい、郁はタオルを借りて頭と濡れた服を軽く叩いて水分を取った。
一通り拭いたところでタオルを畳んでカウンターに置いた。
「ほんと、ありがとうございました」
「よかったらこれ肩に掛けて下さい、残念ながら女性物の着替えはないので」
郁がタオルドライをしている間に奥から持ってきてくれたらしいバスタオルを差し出された。空調はほどよくコントロールされていたが、服が濡れているのは事実なのでそれも遠慮なく借りた。
そしてようやっと店内をさりげなく眺める。
入り口の扉に比べると店内は思ったよりは広かった。郁は十数人しか入らないような店をイメージしていたので、それからしたらカウンターとテーブルとがバランスよくあって、友人と過ごすのもよし、カウンターで過ごすのもよしという感じだと思った。BGMはジャズだけが静かに流れていて何ら店の雰囲気と違和感がない。
だけどお酒に強い訳ではない郁はこういった雰囲気の店に慣れている訳ではなく、入って世話になったもののどうすればいいのか戸惑っていた。
それをマスターは察したようで、優しい声色で話してくれた。
「コーヒーでもお酒でも、食事でもケーキでも何でもありますよ、お嬢さん。ただしケーキだけは自家製じゃなくて悪友のパティシエからの取り寄せだけどね」
「はい」
促されるままに、郁は荷物をおいたツールの隣の椅子に腰掛けた。
ケーキも惹かれるのだが、実は柴崎と食べようと買ってきたものが荷物の中にあった。それに雨が降り出すまでそれなりの気温だったので喉が渇いた。
時間は十七時少し前。このお店だったらBarの時間なのかな?
「じゃあ、スクリュードライバーを下さい」
アラフィフ手前、ってところだろうか。クセのある上官達より同じくらい?少し上?のマスターが無言で郁のオーダー用のグラスを手にしながら笑顔で応えた。
こんなお店で一人で飲むとかって、大人の女の人みたいだなあ、と自分の事ながら初めての体験に少しだけどきどきした。お酒に強いわけでも詳しいわけでもないけど、大丈夫かな?
シフト制の仕事についてだいぶ経つから、買い物に出かけてランチを一人で取るのも苦にはならないし、お茶することも平気になったけど、お酒に弱い自覚はあるので一人で飲みだことはない。
駅までのメインの道とは違うけど、基地からもそれほど遠い場所ではないから、基地の人の結構飲みにきたりするのかな?
そんな事を考えながら、行くの前に並べられたオレンジ色のお酒とクラッカーをアレンジしたおつまみの様なものをちびちびといただいた。
◆◆◆
その日は、当麻先生の裁判がらみで友人の結婚式への参加も出来なくなったので、お祝いだけでも贈ろうと吉祥寺まで足を運んだ。
特別警戒シフトなので、公休も出先を申告して行かなくてはならなかった。
毬江ちゃんと久しぶりに会ってくる、と公休前日に話していた小牧ですら、デートでも近所にしか出かけられない。それでも「デート」という事自体を羨ましく思ってしまう自分がいた。
あたしの「デートらしきもの」の続きっていつになるのかなぁ。
その前に、続きがあるのかどうかもはっきりしない。当麻先生の警備シフトの合間にカモフラージュも兼ねて通常業務も入る。仕事中心な日々故に堂上教官と過ごす時間も長いけれど、それは今までと寸分違わぬ上官部下としての時間な訳で、いつぞやのような「デートらしきもの」のおまけのような雰囲気は微塵無く。裁判絡みの対応にも図書隊が絡んでいるらしいが難しい事は郁に回ってくるはずもないので、郁は通常勤務。そして堂上教官たちはあれこれ事務室やその他外出して対応策を練っている。公休だってそんなデートらしきもの真似事をするような空気はない、郁と堂上の間には。
「まだ雨は小降りにならないようですね」
三十分ほどしてマスターがドアを開けて外の様子を見てくれた。窓の無い店なのでそうするしかないんだろう。
「食事も作れるから、よかったらどうぞ、お腹すいてませんか?」
「ええ、少しだけ」
まだ寮の夕飯には間に合うけど、と思いつつ差し出された食事用のメニューカードも暇つぶしに眺める。
「フードメニューには結構自信があるんですよ」
こんな雨なので他にお客さんんが入ってくるような様子は今のところない。
タオルまで貸してもらったし、せっかくだから、と郁はホワイトソース仕立てのオムライスをオーダーした。
厨房は奥なのかな?と思ったら、食事もカウンターで作るらしく目の前でマスターが手早く卵を溶いていた。
美味しそうなホワイトソースの匂いと共に目の前に出されたオムライスが郁の食欲を刺激して、思いの外お腹が空いていた事にそのときようやく気がついた。
「いただきます」
きちんとそれ一言を口にしてからスプーンでオムライスを切り分け口へと運ぶ。クリームとケチャップと卵という王道の組み合わせが凄く美味しい。
「美味しいです!」
「じゃあよかった。あんまり止みそうになかったら傘お貸しますから」
「はい、いろいろありがとうございます」
「こちらこそ、こんな日に可愛いお嬢さんがお客さんで嬉しいですよ」
可愛いとかってこういうお店の人は上手だなぁ、と思いつつも、マスターが見せる笑顔がちょっとわんこの様で憎めない感じなのだ。おじさんな事には変わりないけど。
「お嬢さんは図書基地の方ですよね?」
はじめての客だからと遠慮してたのだろう。食事も進んだほどよい頃に郁に話しかけてきた。
「はい、お会いしたことありましたか?」
顔覚えが悪いのが自慢になるくらいの郁だ。当然店主の顔は覚えがない。
「いえ、普通に図書館を時々利用しているだけですけど、何度か館内で見かけた事がありましたから、もちろん声をかけたことはありませんでしたが」
それをきいて少しホットした。声を掛けられていて全く覚えていないではあんまりだから。
「目立ちますかね、あたし?」
「ええ、すらりとしてらっしゃる容姿もそうですけど、とてもお仕事が好きだっていう感じがしてね、お見かけしてると」
その一言にちょっと驚いた。
利用者の人からあたしはそんな風に見てもらったりしていたんだ、と。
「仕事の話をすることはあまりないけれど、常連さんには結構図書基地の方もいますよ」
図書館の話をきっかけに郁とマスターは急に会話が弾みだしてしだいに好きな本や作家の話に発展すると、初対面とは思えない楽しさでお酒も思いの外進んでいった。
◆◆◆
ゲリラ豪雨だから小一時間もすれば止むだろうと思っていたが、また次の雨雲がやってきたのか、テーブル席に数人の客が入ったきり、それほど客数は伸びなかった。
そして雨宿りがてらに初めて店のドアをあけたお嬢さんはカウンターに俯せてすやすやと寝息を立てている。
それほど強いお酒ではないと思うが3杯目半ばで撃沈していた。
気さくで愛らしい彼女が図書基地の隊員だということは間違いないが、名前を聞いていないのでどうしたものかと思案する。
思えば書架整理をしていたところも、館内警備をしていたところも見かけた気がしたので、もしかしたら防衛部員ではなく、特殊部隊の隊員なのかもしれない、と思う。
店では仕事の事を積極的にこちらから訊くことはしない。
図書基地の人間は、敵対する組織に対抗し、かつ命を掛けた職務をしていると知っているからだ。本を守るために武器をとる、是か非かとは単純に語れないが、どちらの側もそれぞれの立場があるから安易には触れない。そのスタンスを保ちながら、長くこの地で店を開いてきた。
だが、数人、個人的な距離を保っている客が何人かいた。
店主はその人間を電話帳から呼び出してコールした。
規定の就業時間はとうに過ぎているが、緒形は当然のごとく特殊部隊事務室の自席に鎮座していた。
面倒な書類がまわってきているのがもはや通常業務だ。
胸ポケットの携帯が震えたので、掛けてきた人間の名をみて少し不思議な顔をした。自分が掛けることは何度かあったが、掛かってきたことは殆どない番号だったから。
「めずらしいな電話、なんだ?」
掛けてきた人間は意外ではあったが、親しく話しができる人間ではあった。
「まだ仕事か?」
店の客と話す言葉とは対照的な口調で訊いた。
「定時は過ぎてるから構わん」
「店にな、図書基地の女性が来てるんだが・・・初めての客でしかも寝落ちしてる」
寝落ち、という言葉に緒形は眉間の皺を少しだけ深くした。
「すらりと背が高くてスレンダーな可愛らしいお嬢さんなんだが、もしかしてお前なら知ってるんじゃないかと」
「髪はショートカットか?」
「そうだ。時折図書館内でも見かけるが、巡回もしてたなぁ、って思ったからな。ビンゴか?」
そんな表現をされてBarで寝オチしていると来たらあいつしかいないだろう。
「ああわかった。まだ手が空かないからすぐ誰か行かせる。無理なら後で俺が行くから預かっておいてくれ、大事にな」
「なんだ、大事な女か?」
「馬鹿、俺のじゃない」
緒形は電話を切るとすぐに違う電話先を呼び出しコールする。同じく公休なはずだから迎えに行ける所にいる可能性の方が高いだろうと踏んで。
郁は思いの外楽しいマスターとの会話とお酒に酔いしれた。
お酒に弱い自分が一人でBarに飲みに行くとかって想像もしてなかった。
でもちょっと大人の仲間入りをした気分にもなれて嬉しかった。
基地の側にこんな隠れ家みたいなお店があるなんて知らなかった。都心ではないけど、ジャスが流れるおしゃれなお店なのに日本酒も置いてるっていってたから、今度柴崎もつれてこよう、と思った。
あ、でも柴崎は既に来たことあるかもしれないな。ご飯も美味しかったのでランチに来ても良いかもしれない。値段も手頃だったし名パティシエ作のケーキも期待していいよ、ってマスターが教えてくれた。
お酒に弱いって伝えたのだが、じゃあ弱めにするね、と勧められるままに飲みやすいロングのカクテルを3杯も飲んでしまった。お腹も膨れていたので、余計にほどよい酔いと睡魔が郁を襲ってきた。
堂上教官って、お酒好きだけど、どんなお店に飲みに行くのかな?飲み会はもっぱら居酒屋だけど、こうやって一人で飲むような所とかって行くのかなぁ。
女性がお酌してくれるような所にも行ったりするとか、あるのかな、男の人だしなぁ。格好いいからきっと、そういうお店でも女の人にモテるんだろうなぁ。
堂上が好きだ、っていう自覚はできたけど、自信は全くなかった。だからこのまま、乙女の心をずっと心の奥底にしまって、堂上教官の後ろを歩いて行ければそれでいい、と本気で思っていた。
そんな事言ってると、その人本当に他の女のものになっちゃよ?それでもいいの?
知り合ったばかりの店のマスターにそう言われた。
だってこの恋だけは玉砕したくないから。
玉砕したら恋だけじゃなくて、たぶんずっと持ち続けてきた思いも培ってきた図書隊員としての自分も、全て壊れてしまう気がしたから―――王子様を、堂上教官を追いかけてやっとここまで来れたあたしの全てが。
今の距離すら、失ってしまうくらいならきっと、このままでいい。女として、なんて夢みたいな事言わない。せめて部下として、くらいは維持したい。
そのためには、粗忽で無骨な一隊員でいいんだ、とすら思う。
好きな人を手に入れたい、という本能とこのまま追いかけていければ、傍にいられれば充分じゃない、という理性とが交差する。
◆◆◆
カラン、と店の重い扉が開いた。
少し背の低い精悍な顔つきの男が軽く息を切らせながら入ってきてすぐにカウンターに顔をつけていた郁と、その前に立っていた店主の顔を見た。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
事情を人目で察したその客はすぐに店主に頭を下げた。
「緒形から?」
「ええ、副隊長の部下です、私もこいつも」
「それは苦労様です。さっきまで寝ながらもむにゃむにゃ会話してたんですよ。寝ながら会話が成り立つんだから、すごいお嬢さんだよなぁ」
店主が苦笑いしながら、隣に座るように促した。
「せっかくだから一杯いかがですか。お迎えに来ていただいた事と楽しくお嬢さんと話しをさせていただいたお礼にサービスしますよ」
堂上は少し考えてからじゃあいただきます、とツールに腰を掛け、SCOTCHのロックを、とオーダーした。
「副隊長はよくこちらに?」
「第二の食堂程度には来ますよ」
緒形のお気に入りの店でマスターとは友人関係なのだと、わずかなやり取りからでも推測できた。長らく副隊長とは部下として付き合っていることになるが、こんな『隠れ家』があるとは知らなかった。
「彼女、初めて店にきたのでどちらの所属かわからなくて。緒形の部下でよかった、お名前も聞いてなかったので」
「お手間掛けました」
堂上はグラスを軽くあげていただきます、の意でマスターに合図した。
「緒形はなぜか此処には隊の人間は殆ど連れてこないんですよ。進藤君ぐらいかな、たまに連れだってやって来るのは。もっぱら一人でね。部下を連れてきてくれれば、うちも商売繁盛するのに、ってちょっと苦情を言ったことがあるけど、じゃあその分俺が通ってやる、って言うんですよ」
マスターは堂上の怪訝そうな表情を読み取ってなのか、緒形の隠れ家な訳を訊きもしないのに話してくれた。
「偶然足を踏み入れてくれた彼女は、こうして新しいお客さんをつれてきてくれたから、今日はサービスしなきゃだな」
客相手の丁寧な口調と、緒形の話しになると砕けた口調が入り交じるのが面白い。
「まだ飲み屋としては早い時間だし、よかったらゆっくりしていってください、緒形を知る人が来てくださったのも嬉しいですから。お嬢さんも一寝入りしたらすっきりするんじゃないかな」
「ええ」
酒も雰囲気も悪くない。初めての店では無難なウイスキーを飲む。そこからお任せでつまみを頼み、気分が乗れば酒を作らせる。
長く一人身でいれば、気に入った店ぐらいは作っておく。副隊長もやはりそうか、とその気持ちになんとなく同意できて小さく笑った。ああ、意外にも近場で良い隠れ家を教えて貰ったな、と。
堂上にもそんな店はある。だが、あえてそれは基地の最寄り駅で無い所にしていた。
「彼女、一生懸命で可愛らしいね、それなのにこんなに無防備じゃあ上官も大変だ」
ウチで寝落ちなら俺がみてあげられるけど、他所だとね、大変な事になりそうだよ、と真顔で堂上に忠告する。その一言をどう取ったのか、堂上眉間の皺を深くしてマスターを警戒しはじめた。
「酔ったら饒舌になって、眠くなるタイプだね。好きな人がいるけれど、玉砕したくないから、このままでいいって」
「・・・」
それが何を言わんとするのか。
「お酒弱いんです、って良いながらもちびちび飲んでてね。オムライスも満面の笑みで美味しいって言ってくれたし。あんなに素直な女の子はなかなかいないね」
あれだけまっすぐに思われているのに気がつかないのかなぁ、男の方は。
――余計なお世話です。
そう口から出そうになって慌てて止めた。
初めて来る店のマスターに言うような話じゃない。こいつがどんな風に語ったのか解らないが、カマをかけられるのも見透かされるのもゴメンだ。
無言で煽ったグラスをコトリと置いたタイミングで、すっとオードブルが軽く盛りつけられた小皿が差し出された。
「この雨じゃ背負って戻るのも一苦労でしょう、お客さんも少ない夜になりそうですし、よかったら私の賄いに付き合ってください」
カウンターの向こう側の彼は食材をとりに一旦店の奥へと消えた。その前に、堂上の酒の飲み方をみて、ウイスキーをダブルで用意したところは優秀なマスターだと言わざる得ない。粗忽な部下の可愛い寝顔を酒の肴にするのも悪く無い、という気分になり始めている点は、緒形とマスターに嵌められた気がしなくもない。
気の抜けない警備スケジュールと通常業務のダブルワークだ。
公休日すら不自由を強いられている状況で、毎日顔をあわせていることに安堵を覚えてしまう自分がいるのも事実だ。
――こいつに対する気持ちを確かに認めている。
手に入れたい、と思うが、こいつも自分も人が思うほど器用ではないから、とあの日以来、踏み出すことを耐えている。
当麻先生の件が終わったら――
そう言い訳しながら、仕事であっても彼女が横にいることを、傍にいることを気づかぬうちに当然のように思っている自分は狡いのだろうか。
伸ばせば手が届くだろう、と分かっているのに彼女が伸ばしてくるのを待っているような。
伸ばした瞬間、逃げられるのではないか、という不安が何処かにある。なにせ相手は笠原郁だ。
「緒形はね、店の名前に釣られて入ってきたんですよ、最初」
マスターの一言は、何を言わんとするのか。
「一人で来てもらっても、仲間と来てもらっても。ふと、自分の気持に正直になってもらえる空間にしたくてね」
素直に――
手放す気は微塵もないのに、躊躇する理由はなんだろうな、と自嘲しながらグラスを傾ける。
時間と任務に追われる中で、こんな風に自分に向き合う時間と空間をもらえたのは・・・褒美か。
カウンターにうつ伏せてすやりと眠る郁の額にかかった前髪に指を伸ばし、そっと掻きあげて伏せた瞼を、潤む唇を、柔らかく見つめた。
◆◆◆
郁がオムライスを食べた話をされたので、てっきり同じものが用意されるのかと思っていたら、マグロユッケ丼を頂いた。
ネギをたっぷりのせるのがウチ流だと言われたあとは、いい日本酒を注がれて、迎えにきたはずの堂上も少々微酔いになり始めたとき。
外に車が止まる音がして、ドアが開いた。
「ああ来たか」
「来ると最初から践んでただろう?」
「まあな」
入ってきたのは堂上を使いに出した緒形だった。
「タクシー、待たせたままだからそれに乗って笠原を連れて行け」
「ですが」
「基地からここまでの片道じゃタクシーの運転手に悪いだろう」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
財布から出した二人分の意味で一万円札をカウンターに置く。
「残りは副隊長のボトルにでも」
「部下の酒は飲めんぞ、堂上」
「じゃあ彼女がまた来てくれた時にたっぷりご馳走しておきます」
マスターの言葉を受け止めながら、おい起きろ、と堂上は郁の肩を揺らし始めた。
「別に当麻先生の件が落ち着くのを待たずに捕まえたっていいんだぞ、堂上」
緒形は慣れた風でカウンターの前に座り、出された生ビールグラスとおしぼりに手を出した。
「――何のことですか」
「姫さん。こんな無防備な寝顔いつまでも晒させておく気だ?」
その言葉には、俺だったら惚れた女をこんなところで無防備に寝かせない、という意味が当然含まれていた。緒形の恋愛遍歴の、細かいことまでは耳にしていない。だが以前に大事な人がいて、それ以来はあまり恋愛沙汰に積極的になっていないようなことを酒の席で聞いたことがあった。
「大事な女の寝顔は腕の中で。――って最後に思ったのは何時だお前?」
緒形をからかうような言葉をかけながら、堂上をダメ押しするように微笑むマスター。反比例するように堂上の眉間の皺が深くなる。
「俺の話は置いとけ。堂上――」
生返事で目を覚ましたものの、まだうつらうつらしている郁の肩を持ち、かばんを手にしていた堂上のために、緒形は立ち上がって店のドアを開けてやる。
「いつでも同じ側でいつでも手が届く、なんて自惚れてると取り返しのつかないことになることだってある」
その言葉に無言で堂上は目を合わせた。
いい意味で、この人たちに心配をかけているのかもしれない、と思いつつ。緒形の身の上のことを、どんなことが、と聞ける立場にはなくとも、タイミングを間違えるなと伝えてくれているのだから。
マスターにご馳走様でした、と言葉をつくし、緒形の好意に甘えて郁をタクシーに押し込みながら自分も体を滑り込ませた。
基地までほんの数分、自分に身を預けろと言わんばかりに肩を抱き寄せ、そっとこめかみに唇を寄せる。
ほのかに香る郁の匂いを味わうくらいの褒美があってもいいだろう、と自分に言い訳しながら、間違えない事を決定事項にした、少しだけ素直になった自分の中で。
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