+ 最愛 後編 +   夫婦期

 

 

 

 

 

あいつを開放してやるべきなんだろうな。


寮の門限前に小牧を居酒屋に呼び出し、泣き言を言うとは思わなかった、自分でも。
情けない、と思ったが、それくらいどうすればよいのか、もうわからなくなっていた。
思い出せればよいのだろうか、かといってもう一度頭を打っても元に戻る保証は何処にもない。

「これを俺の口から言うのは苦しんでいる当人じゃないから反則だと思って、ずっと言わなかったけど」
お前を責めるつもりはないけれど、泣くことすら我慢している、そんな笠原さんを見てられない、正直言って。

小牧はぽつりぽつりと、かいつまんで昔話を始めた。
「彼女はずっと、お前に追いついて追い越したいんだって頑張って頑張って、ここまでになった」
今夜はビールを飲む気分じゃないね、と珍しく小牧は熱燗を飲んでいた。
「どんな逕路を経てお前達が夫婦になったのか、なんて話すつもりは無い。だけど、彼女は俺たちの目から見てもう一途に純粋に、お前の背中を追ってた。それはいつしか公私共に、になってたんだと思うよ」
堂上は小牧の言葉を黙って聞いていた。女の事をこんな風に他人に縋って聞くのは初めてだ。
「お前は彼女を大事にしてたよ、ほんと。もしかしたら、自分より大事だったんじゃないかな」

男が自分よりも大事にする女。

「まあ笠原さんも、自分より他人の方が大事、っていうタイプだけど。お前が男として何よりも大事にしていたっていうのがもう、周りの誰がみてもバレバレだったよ」
特に彼女を手中に収めてからはもうほんとに凄かったから。
笑いながらそう話す小牧が砕いてくれた場に少し自傷的な気分から冷静になれた。

「何を躊躇しているか知らないけど、彼女はもう立派な特殊部隊隊員で、大人の女だよ。今の彼女を大事だと思う気持ちが、お前の中に大なり小なりあるなら素直にそれをぶつけてみればいいんじゃないの?」
大事にしたい。いつ、何がきっかけであいつを愛し始めたのか、なんて思い出せなくても。
あいつは俺を大事にしてくれていることが凄くわかっていた。笑顔で挨拶を交わす郁、俺が作った料理を美味しいと笑う郁、俺とあいつはこんな風にお互いを想い合って家事を分担して過ごしていたんだとよく理解できた。

笠原は---------郁は、素直に俺を好きになってくれたのだろう、あいつの王子様でない俺を。
じゃあ俺はいつ、自分の気持ちと向き合うんだ?いつまで閉じこめた箱に、失った記憶にこだわっているんだ?






◆◆◆






翌朝、堂上班は公休だった。
酔って堂上自身もよく眠れたわけではなかったが、勤務日と同じ時間に目を覚ましたはずだったのに、しんと静まった官舎の中に郁の姿を見つけることができなかった。

代わりに手にしたのはテーブルの上にあった一枚の封筒。
表書きには『鍵は持ってても置いていってもどちらでもいいです』と郁の字で書かれていた。中を覗くと、緑の縁の用紙が一枚『堂上郁』の欄が埋まっていて捺印もされていた。
バンッ!とテーブルに封筒を叩きつけてから飲んだくれて愚痴をこぼしていただけの自分に腹が立った。


結局俺は笠原に甘えていただけだ。

記憶が戻らないのを仕方がない、とは言いたくないがこればかりは嘘をつけない。だが思い出せないの事に甘え、あいつの精一杯の優しさに甘え、結局何一つ返してやることも与えてやることもできずに傷つけた。二人にとって大事な記憶がぽっかりと空いている癖に、郁と過ごした時間が楽しかった。この小さな官舎の部屋で交わす二人だけの会話に小さな幸せを見いだしていた。
---------幸せだとか、俺は何でこうも偽善者なのかと罵りたくなった。その幸せはあいつの我慢の上に出来た者だったから。


素早く着替えをすませて官舎を飛び出し、寮に向かう。すぐに携帯を取り出し、まだ起きたばかりであろう柴崎に電話を入れた。事情を簡単に話して、柴崎の元に行ってないか、連絡がなかったかを聞いたが何もないという。あいつの行きそうな場所を聞けば「二人の思い出の場所とかじゃないですか?時間も早いからまだそこには行ってないと思いますけど」何泣かせてるんだ、と言わんばかりに冷たくあしらわれた。


俺の記憶のないところで図書特殊部隊員として成長を遂げていたあいつ。
鬼教官でしかないはずの俺に満面の笑みをむけるあいつ。
あたりまえのように日々の生活の中でやり取りする会話にも、郁の想いと心情が伝わってきていたはずだ---------愛情と慈しみと、絶望と。
なのにそれに気づかず、いや、気づいていたのに、ただ現状とあいつの優しさに甘えていた。
記憶の戻らないままでも、今の俺は郁が好きだと告げることが出来たはずなのに。

だが、あいつの心を掴むことが出来なかった。手を伸ばそうかと躊躇している間に、彼女は掌からこぼれ落ちていったのだ。


もう--------無理なのか。
掴かむことも出来ず空を切った自分の手をぼんやりと見つめ、抜け落ちた記憶以上に心が空虚になった自分を嘲笑った。





◆◆◆





どうしよう。
とにかく、普段から早起きの堂上と顔を合わせないうちに家を出ようと飛び出してきたので行き先は考えてなかった。
とぼとぼと図書基地から離れるために駅まできた。


----------カミツレのお茶を案内するのに、初めて此処で待ち合わせして出かけた。あたしが遅刻したー、って走ってきたら怒られたっけ。あの日の事は今でも鮮明に記憶に残っている、あたしの中だけに。
その後も此処でデートの待ち合わせをすることが多かった、上官と部下という関係からプライベートな関係に切り替えるのに、寮でない場所で待ち合わせることが新鮮だったから。

この駅から電車に乗って出かけられる所は、堂上との思い出がたくさん詰まりすぎている。この駅も、あの駅も、あの店も。
思い出の場所回りは切なすぎるから、無理だ。そんなに-------割り切れていない、簡単な事じゃない。


堂上の中では『笠原郁』でしか無いあたし。だから『笠原郁』に戻ればきっと上手くいくのだろう・・・・・・・でも、そう思うだけで涙が止まらない。
いけない、駅の前で泣き出すとか不審者だ---------
ふたたび駅から戻って、かつてデートの帰りに良く立ち寄った公園に足を向けた。この時間なら子ども達もいなくて、場にそぐわない事もない。
昨日たくさん泣いたのだから、もう泣いている場合じゃないのにな。教官が離婚届にサインをしたら、あたしも官舎を出ないとなんだ、と初めて気づく。でも互いに寮に戻るのはちょっと辛すぎる。

そうか、住むところ、探さないと・・・。
思い出と悲しみで混乱している中で、やっとひとつやるべき事らしき事柄をぼんやり考えた。





◆◆◆






あいつが行きそうなところ、が全く浮かばなかった。
どうするか、どうしたいか、なんてとっくに決まっていた。
なのに、記憶が戻らない自分が歯痒い。あいつと過ごした時間を失ったままなのは嫌だと思っていた。だから思い出すまでは、何も出来ないと思った。

違う。
4年ちかくの記憶が抜けていたとしても、今の俺はあいつを必要としている。
『笠原郁』という女は記憶があるときでも大事で、失うべき女ではないのだ。


とにかく図書基地を出た、闇雲に走った。まずは駅だろうと、図書基地から離れるのに出向きそうな所へと脚を向ける。息を切らして向かいながらもふと視界の片隅に入った公園に既視感を覚えた。
----------よく来たはずの公園。

どこにでもあるような小さな児童公園に足を踏み入れると、こちらに背を向けて一人ベンチに座る見慣れた女の後ろ姿を見つけた。




「---------郁」
声に気づいて、女が振り向く、泣き顔を掌でずっと拭ってから。
「きょう、かん」
郁、と呼びかけたことで思いだしたのか!?と一瞬戸惑わせたかもしれない、と思い堂上は小さく首を振った。

「すぐ、には無理だと思うけど、異動願い、出しますね」
「必要ない、迎えに来た。一緒に帰ろう」
「もう・・・・・・・教官に無理して欲しくない。あたしも・・・・・・無理したくない、ですから」
郁は首を振った後、再び目を伏せた。
「違う、俺が悪かった」
「なんで!?記憶が戻らないのは教官のせいじゃないです!」
「そうじゃない、俺がちゃんと口にしなかった。そして、記憶が戻る事にこだわってた」
本当は、お前が俺を好きだと言ってくれた時のこと、好きだと笑ってくれたであろう姿を思い出したかった。

「二人で築き上げてきたはずのものが、今の俺には何もない。それでも、俺はお前の事が好きになった、これは本心だ」
既に夫婦だと言われたことで二人で一緒にいることありきになっていたから、あえて口にすることがしなかった、いや、口にしなくても良いと思ってた。
「お前と過ごしてきた事を失ったまま、なのは辛いと思ってた。でも本当に辛いのは、記憶を失うことじゃなくて、お前を失うことだと気がついた。すまなかった、辛い思いばかりさせて」
「どうして・・・・・・・謝るの・・・・・・?教官は、悪くないのに・・・」
「お前も悪くない」
ベンチに近づいた堂上は隣に座り、郁の後頭部に掌を当てて胸に引き寄せた。わずかな力で抵抗を試みるが、戦闘職種の拘束はびくともしなかった。

「今の俺と結婚・・・・・・してくれるか?」
「もう、して、ます・・・」
「もう一度」
「無理!重婚に、なっちゃうもん」
「最初の旦那も俺で、次も俺だから問題ない」
「・・・教官横暴っ・・・」
「・・・・・・・・俺の分まで、最初の旦那の事を、覚えていてやってくれ。だけどこれからは、今の俺を見て、俺に・・・・・・甘えてくれ」
郁の背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱き込んだ、離さんとばかりに。




堂上の言葉に、はっ、となった。
教官に、あたしを妻だと記憶していない堂上には、甘えられない、と思っていた。
だけど好きな人に甘えられず、甘えても貰えない生活は辛かった。共同生活なだけで、あたし自身は必要とされていないんじゃ・・・と。
郁には堂上が必要だったのに、遠慮しているうちに、最初より距離が空いてしまった。

「どうじょう・・・きょうかん・・・」
「郁、違うだろう?」
「あつし、さん・・・」
顔を上げてあらためて堂上の顔をみて目を合わせる。漆黒の瞳は確かに、郁の事をずっと捉えていた。そして少し冷たい無骨な掌が郁の柔らかい頬を包んだ後、顔が近づいてきて唇が触れた。
触れるだけのキスなのに、きゅっと心臓を掴まれた-----------どれくらい振りに触れ合ったのか、もう思い起こす気さえ起きなかった。


もう一度。
この人と、あたらしい恋をして、いいですか?
生涯ただ一人、と思った『堂上篤』を忘れず、今目の前の堂上と恋を始め、愛を紡ぐ。それでもいい、と言ってくれるなら---------


唇がゆっくり離れたあと、郁は堂上の背中に手を回し、ぎゅっとぎゅっと抱きしめた。
「今の篤さんは、今のあたしが好き?」
「ああ、最初の旦那の俺が思い出したら嫉妬するくらい、お前が好きだ」
その言葉に偽りはない、と心からそう思えた、そしてきっとあたしはそれでも十分幸せだと思えた、思いたかった。
-----------だって、あたしがずっと追いかけて、受けとめてくれた人だったから。





◆◆◆





しばらくそうした後、互いに朝食も未だだったと気づき、何処かでモーニングでも摂ろうという事になった。
「朝食、食べたら教会行くか」
「ええっ!?それ、本気だったんですか!?」
「ああ」
お前が俺のこと信じてくれるなら、何度でも結婚してやる。
「って、篤さん本当に記憶戻ってないの!?」
「そうだ」
否定はされたけど、意外と無茶振りな事を本気で言ったりするところが、郁の知っている堂上だと思えた。
「・・・・・・・・家に帰ったら、たくさんキス、してくれますか?」
「ああ、なんならその先だってたくさんしてやる、夫婦だからな」
わずかながらと口角を上げて堂上が応えたところで、郁は慌てて牽制を入れた。
「まだ二度目の結婚式してないもんっ!」
「じゃあ結婚式の後だから、二度目の初夜だな」
昼間なのに!っていうかまだ朝なのに!と郁はちょっとふくれた顔をしたが、実は本当にそうするのかもしれない、と思ったら急にどきどきしてきた。

「お、オテヤワラカニ・・・オネガイシマス」
記憶のない堂上も、堂上な訳で。堂上が触れてくれる、愛してくれる、と思ったら素直に嬉しかった。
「じゃあまず飯な」
うん、と大きく頷いてベンチを立つ。そして何も言わないのに掌を取って、恋人繋ぎで繋ぎ直してくれたことに驚いた。

記憶がなくても、篤さんは篤さん、なのかもしれない。

恋人同士で合った頃に、二人寄り添えば必ずこうしてくれた。意識しなくてもそんな所は変わらないなら、きっと今の篤さんもあたしを大事にしてくれる、そう思えた。





◆◆◆





郁と堂上のさらに新しい生活が始まった。
まったくぎこちなさが無くなった、とは言えないが、郁が甘えても堂上は受けて止めてくれる。堂上も以前より自然に郁に笑ってくれるようになった。

そして、ちゃんと隣で眠り、一緒のベッドで朝を迎えるようになった。




そんな生活を始めて1ヶ月ほど。


郁が入浴中に、部屋からドスンっという音が聞こえて家中が揺れた。何事かと思い、タオル巻いて慌てて飛び出したら、堂上が頭と腰を押さえてベッドの脇で倒れていた。
「ど、どうしたの!?」
「いや、その・・・・・・・」
腰をさすりながら語り初めて堂上によると、テレビで体操選手が助走なしのバク宙をやったのを見て自分でも試したくなったが、念のためにベッドの上でやってみたら、成功したがベッドのスプリングが強すぎて・・・・・・・
「・・・跳ねて落ちた、と」
「ああ」
ばつの悪そうな顔をしてシュンとなっていた。5歳も年上の鬼上司だったというのに、こんな所は悪戯しすぎて飼い主に怒られたわんこみたいでちょっと可愛い、と郁は思う。
薬箱から湿布を持参して堂上の腰に貼ってあげた後、再び風呂に入り直した。


郁が風呂から上がるタイミングで、ちょうど冷やしたハーブティが出された。堂上の、さっきのお詫び的な気遣いだろう、と思うと小さく嬉しい。
「そういえば、郁宛に『結婚しましたはがき』が来てたぞ」
部屋着に着替えて再びリビングに戻ると、堂上がはい、と目の前に差し出した。
「旧姓北条さん、ってたしか結婚式に来てたよな?高校の同級生だっけ?」

へ・・・・・・・・?!

郁と結婚した記憶がない堂上が、自分たちの結婚式に招いた郁の同級生の事を知るはずがない、もちろん名前だけでもだ。
「篤さんっ、もしかして、思い出した!?」
「何を、だ?」
記憶が戻ったのが、わかっていない!?

「じゃあ、カミツレのお茶を初めて飲みに出かけた場所は?」
「立川」
「じゃあ、初めてキスしたのは?」
「・・・書店の倉庫の中」
それらは記憶の失ったままの堂上では知り得ないことで、当然郁から語ったことはない。

「じゃあ・・・あたしが書いた離婚届はどうした?」
「二人で戻ってきてから、カケラも見たくないから、って燃やして捨てた」
記憶が取り戻せない間の事も覚えていた、そう、帰宅してからテーブルに置いたままにしてあった封書は、中味ごと台所のシンクで火をつけたのだ。

「篤さんっ!!!!」
郁は嬉しさのあまり、飛びついてぎゅっと抱きついた。もう、あんな思いはしたくない----------。
「思い、出したよ、ちゃんと」
二人の大事な記憶を、すべて。
「・・・・・・・でも、あたし二度結婚しちゃった・・・・・・」
「それは俺も同じだろう」
そっか。じゃあ許してくれる?と抱きついたまま、上目遣いで堂上を見つめる。
「それも俺のセリフだ、辛い思いさせて、すまなかった、すまん」
「それは篤さんのせいじゃないし」
でも、よかった。

万感の思いで、よかった、と大事な一言を口にした。
よかったから、もういいの。

結局、記憶の無い間も、我が儘を通すような形で堂上の傍らに居続けた。恋人だったことも、妻だったことも、一時は失われたけど、すべてが戻ってきたから、もういい。
そして、今も、これからもこの人の傍に居続けられるのなら。
「じゃあ、次は身体が覚えているかどうか、確かめような」
「ええっ?!」
最初の夫の愛し方を忘れているはずがない。それは、きっと今の夫以上に容赦のない------------。
「あ、明日、訓練日だしね?」
「手加減する」
うわあ、それ、たぶん手加減のレベルが違うと思うのー!
と、抵抗する前に既に腰を獲られてそのまま膝裏も抱き上げられる、つまりいえばお姫様抱っこで。
「もちろん、お前の王子様だってのも織り込み済みだ。んな恥ずかしい事までちゃんと思いだしたから覚悟しとけよ」
ここでささやかな抵抗をしても、体力消耗するだけだ・・・と覚悟を決めると、ぎゅっと堂上の首にしがみついた-----------ベッドから落とされて今度は自分が記憶を失わないように。





fin


(from 20140125)